【言有宗コラム】「読む」とは何をすることなのか?〜前編〜(2006/08) 

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●今月はこんな早くからジョーカーを切っちゃいます(^^;)

なぜなら、今月はジョーカーを2枚持っているからなんですね〜

じつは7月は論文オンラインの「言有宗」と学習塾ブレスの「月刊ブレス」と両方のニュースレターにコラムを書いたんです。だから今月は2回、過去のコラムの発表でブログの更新が出来るという訳。

今日は「言有宗」の方のコラムをアップします。

タイトルは「『読む』とは何をすることなのか?」というちょっと理屈っぽいヤツなんですが、なるべく分かりやすく書いたので、最後までお付き合いいただければ嬉しいです。

あ、そうそう。冒頭の画像は大英博物館にある「ロゼッタストーン」。ヒエログリフの解読のきっかけとなった碑文です。じつは今回のコラムのタイトルを「記号解読のススメ」にしようかと最初に思ったんですね。それを思い出して載っけてみました。どうしてそんなタイトルにしようとしたのかは、本文をお読みいただくと分かるようになってます(^^;)


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長かった梅雨も、もうそろそろ終わりのようですね。
 地方によっては大変な雨量で災害に見舞われた地方もあったようですが、受講生のみなさまの地方はいかがだったでしょうか。
 さて、今月と来月は、「書く」前提となる「読む」という行為について考えてみたいと思います。題して「『読む』とは何をすることなのか?」です。

「読む」とは何をすることなのか?

●最初に
 いきなり質問です。
 いま、あなたが見ているものはなんですか?
 あ、キョロキョロしないでください。別に身の周りにあるものではありませんから(笑)。
 私が訊いているのは、まさにいま、あなたが見ているもの、そう、あなたの目の前にある、いろいろな形に折れ曲がったり、丸まったりしている“線のかたまり”のことです。
 文字? 言葉? 活字? たしかにそうともも呼ばれていますが、この“線のかたまり”。物理的な正体は、なんのことはない「インクのシミ」です。
 あなたはいま、白い紙の上にRICOHの印刷機で点々とつけられた「インクのシミ」をながめているのです。
 でも、不思議ではありませんか?
 どうしてこの「インクのシミ」は「文字」として私の考えをあなたに伝えることが出来るのでしょうか。そして、いったいあなたはどうやってこの「インクのシミ」を文字として“読み”、私の言いたいことを理解する(あるいはしない)のでしょうか。

●文字・単語を読む
 今回はこの問題を「文字」という最小の単位から順番に考えていきます。
 まずは、以下のの漫画をご覧下さい。

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(c)吉田戦車『伝染るんです』(小学館)

 80年代に一世を風靡した吉田戦車の『伝染るんです』です。この漫画、ナンセンス漫画と称されますが、いや、どうしてどうして、われわれの常識を骨抜きにしてくれる「哲学の書」でもあります。
 この4コマ漫画がわれわれに突きつけてくるもの。それは文字というものは “音”と結びついており、その結びつきは恣意的(いいかげん)なものである、という事実です。 
この漫画の4コマ目を見たときわれわれの頭の中に鳴り響く奇妙な音、あるいは何も音が聞こえないという居心地の悪い真空状態が、普段われわれが、いかに文字と音とをセットで認識しているかを教え、ここには書けませんが、「あ」や「ひ」や「て」が、“あの音”と結びついているのは、まったく必然性のない、単なる約束ごとなのだ、ということを教えてくれます。
 では、文字が結びついているのは「音」だけなのでしょうか。
 こちらの漢字をご覧下さい。

    

 この字は「もやい」と読みます。
 さあ、これでこの文字の指し示す「音」は分かりました。しかし、それだけでこの字が“読めた”といえるでしょうか。
 そうです。文字、そして文字を組み合わせて作られた単語を“読む”という時は、その文字や単語の「意味」も分からなければ“読めた”とは言えません。(ちなみに「舫」とは「船を陸につなぐヒモ」のことです)
 文字は、「ある一定の線の形」と「音」と「意味」の三つが結びついてはじめて機能します。別な言い方をすると、文字とは音と意味とに結びついた“記号”なのです。
 そしてその記号を、どのような音と意味に結びつけるかは、それぞれの言葉によって決められています。英語には英語の、日本語には日本語の、結びつきのための約束ごとがあります。
 結局、文字や単語を読むというのは、「ある特定の形を持った線の固まりを、その言語内の約束ごとにしたがって、ある特定の音と、意味とに結びつける行為」ということなのです。
 ということは、「その言語内の約束ごと」を知らないひとは、その文字を音と意味とに結びつけることができない、ということになります。なぜなら言語が社会的なものである以上、勝手な結びつけは許されないからです。
 ここでまず、「読めない理由その1」が明らかになります。

★読めない理由その1
“文字”と“音”と“意味”のつながりを知らない


 ここで「知らない」と書いたのは、この三者のつながりは「理解する」というものではないからです。ただ、「そういうものだ」と受け入れるしかありません。
 文字や、単語のレベルで“読める”ようになるためには、その約束ごとをなるべく多く覚えるしかないのです。

●文を読む
 「文字」と「単語」の上位には「文」という単位が来ます。
 それでは、“文を読む”とはどのような行為なのでしょうか。
 言葉に関する有名なパラドクスに、アウグスティヌスのパラドクスがあります。(訳文は読みづらいので、意訳して掲載します)

 果たしてわれわれは言葉によって何か新しいことを知るということができるのであろうか。もし、その言葉が既に知っているものであるとすれば、その言葉が指し示している事態は、すでに我々が知っている事態であるということになり、その言葉はなんら新しいことをわれわれに伝えない。逆にその言葉が未知のものであるならば、われわれはその言葉を理解することはできず、その言葉は単なる雑音に過ぎない。結局、我々は言葉で新しいことを知ることはできないのである。(アウグスティヌス「教師論」)

  
 経験的にアウグスティヌスの見解が間違っていることは明らかです。
 ではあなたなら、このパラドクスをどのように、解消しますか。
 彼の主張が、どう間違っているのかを説明する方法は、いくつかあります。
 たとえば、「たしかに一つひとつの言葉は既知のものであっても、その組み合わせは新しいものだ。知っている言葉を知らない組み合わせで使うことで、新しい事態を知ることができるのだ」という反論が可能です。
 さきほど「舫」の意味を「「船を陸につなぐヒモ」」と説明しました。
 「船」「陸」「つなぐ」「ヒモ」これらはすべて知っている言葉です。しかし、それらをすべて組み合わせるという組み合わせ方がはじめてであって、その新しい組み合わせ方によって、われわれは「舫」という新しい言葉の意味を学ぶことができたのです。
 また、こんな反論もあります。
「おなじ言葉でもその言葉が発せられる状況はそれぞれ異なり、状況が異なればその言葉が指し示す意味は異なる。置かれた状況が異なれば、知っている言葉であっても新しい意味を持つことができるのだ」
 たとえば、同じ「あ、雪が降り出した」という言葉であっても、雪深い地方ですでに数メートルも雪が降り積もっていて、さっき雪かきが終わった人が発するものと、都会で美味しいクリスマスディナーを楽しんだカップルが、あたたかいレストランから出てきて発したものとでは、その言葉に含まれる意味は全く違うものになります。われわれは、前者には「うんざり」という感情を見つけ、後者には「うれしい」という感情を発見するでしょう。
 文字に限らず、言葉で何かを知るということは、その言葉と自分の経験を照らし合わせてその言葉を解釈し、意味を生み出す、ということです。
 そして、言葉を正確に理解するためには、その言葉を解釈するための充分な経験が言葉を受取る側になければなりません。
 たとえば最初の例でいえば、「船」や「ヒモ」を見た経験がない人は「舫」を理解できないでしょうし、雪国での生活や、カップルで過ごす楽しいクリスマスの経験が、直接的であれ、間接的であれない人には、ふたつの言葉の意味の違いは、理解できないでしょう。
 結局、言葉を解釈する時は、経験が物を言うのです。
 事情は文を読む時もまったく同じです。つまり、文を読むという行為は、文字で書かれた単語の連なりを、自分の経験と照らし合わせて解釈し、それが指し示す事態を理解すること、なのです。
 ここで「読めない理由その2」が明らかになります。

★読めない理由その2
言葉を解釈するための“経験”が不足している


 ここでいう“経験”には2種類あります。「直接経験(現実と交流する経験)」と「間接経験(言葉による経験)」です。
 そして、特に論説文を読むときに問題になるのが、言葉による経験、つまり間接経験の不足です。
 論説文には現実と直接の結びつきを持たない”抽象的な”言葉がたくさん出てきます。そして抽象的な言葉の意味を経験するには、まさに言葉でもって、その言葉の意味を体験するしかないのです。

経験から引き出された判断(帰納法)は、例外のない普遍性を備えていない。それは比較的多くの場合に当てはまるだけである。(カント『純粋理性批判』)


 このような文を理解するためには、豊富な言葉による間接経験が必要です。
 結局、文を読めるようになるためには、直接的にであれ、間接的にであれ、豊かな“経験”を積む必要があるのです。(後編へつづく)

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