坂東眞砂子氏に感謝する(その2)
- 2006 08/25 (Fri)

●念のため、「前回」と同じこと書いておきますね。(^^A;)
えーと、まず最初に言っておきますが、この記事のタイトルは、今回問題となった坂東氏のエッセイの内容に対して賛同し、よくぞ言ってくれた、という意味のものではありませんので、そこんとこヨロシク!(笑)
早とちりして、「この鬼畜!」みたいなコメントはしないでくださいね〜
さて、前回は、坂東眞砂子氏の「子猫殺し」というエッセイは「教材」としていろいろ使える。こんなにも使える教材を提供してくれて、どうもありがとう! という意味で「感謝する」というタイトルを使ったこと。そしてまず、「論理的思考」を鍛える教材として氏のエッセイは最適だ、ということを書きました。
今日はあと2つ、ボクが思いついた「教材」としての板東氏のエッセイの使い方を書いてみます。
エッセイの使い方その2は、いわずとしれた「道徳」の教材として使う方法です。
ただ、「道徳」の授業で使うって言うと、あのエッセイを読ませて、「こんなことは許されません。動物はかわいがりましょう」「は〜い!」みたいな授業をするんじゃないか、と思う人が多いと思うけど、そうじゃありません。
そもそもボクは、「道徳」の授業というのは、「動物をかわいがりましょう!」みたいなスローガンを教えるためのものではなくて、「ある社会的状況において、どのような行動を採ることが自他を一番幸せにするか、を考える授業」だと思っているんです。
だからボクは、じつは「子猫殺し」という行為自体については非難していない。
なぜなら、どうしても子猫を殺さざるを得ない、あるいは殺した方が良い社会的状況というのも存在すると思うからです。(たとえば生まれてくる猫が非常に危険な病原菌に冒されているとか、これ以上猫を増やすことがある閉ざされた生態系を決定的に破壊してしまうとかいう場合)
ある行動の意味は、その行動がおかれた状況によって決定されるわけで、その行動の善悪の判断も、結局、相対的なものとならざるを得ない。
だから今回、坂東氏が非難されるべきなのは、単純に子猫を殺したことではなく、あのような穴だらけの無茶苦茶な論理にしたがって子猫を殺したことだ、とボク自身は思っているんですね。
つまり、あの子猫殺しには必然性がない。あの文章を読む限り、子猫を殺す必要性はない(事実、氏は「タヒチでは野良猫はわんさかいる」と書いておきながら、「わんさかいる」野良猫が、社会にどんな悪影響を与えているかをまったく書いていない)のに、坂東氏が自分の勝手な論理で子猫を殺し、それを正当化しているように見えるから、非難されるわけです。ぜんぜん、「自他を一番幸せにする」行動を採っていない。(-_-;)
だから、あのエッセイを資料として生徒に渡して、「資料から読み取れる範囲で、坂東氏自身と親猫・子猫、そして周りの社会のために、氏が採るべき最善の方法は何か?」「もし、あなたが資料文にある状況下の坂東氏の立場ならば、どう行動するか?」と問えば、これはなかなか良い「道徳」の授業になると思う。
資料文に書かれた状況下で、子猫を殺す以外にどんな方法が考えられるか?
不妊手術も含めて、採りうる行動のあらゆる可能性を考え、その中から「自他を一番幸せにする」行動を模索していく。
そしてその過程において、生徒は実生活におけるより適切な意志決定の方法を学んでいくんだと思うのです。
さらには、氏のエッセイに加えて他の事例も与えることで、もっと深く「動物を殺す」という行為の意味を考えることもできます。
たとえば、こんな話はどうでしょう。
Aさんは、養鶏業を営んでいます。ブロイラー(食肉用)の鶏で、11棟の鶏舎に2万羽のヒヨコを仕入れてきて、それを約3ヶ月育てて市場に出荷しているのです。
仕入れたヒヨコの中には、ある一定の割合で生まれつき足の弱い「脚弱」と呼ばれるヒヨコが交じっています。脚弱のヒヨコは遅かれ早かれ、仲間の鶏につつかれて死んでしまいます。そんないつか死んでしまう脚弱のヒヨコにエサを与えるのは、養鶏業を営むという立場から言えば、ムダなことです。エサはただではありません。他の健康な鳥を太らせ、コストを下げるためにも脚弱のヒヨコは取り除く必要があります。だからAさんは、脚弱のヒヨコを見つけると、鶏舎のコンクリートの床にたたきつけて殺してしまいます。
さて、この話を生徒に与えておいて質問します。
「坂東氏の『子猫殺し』とAさんの『ヒヨコ殺し』は同じでしょうか、違うでしょうか?」
「もし違うとすれば、何が違うのでしょうか?」
「もし、あなたがAさんの立場だったらどうしますか?」
この質問って大人が考えてもいろいろな答えが出てくると思いませんか?
で、このAさんの話なんですけど、じつはAさんというのはボクの父親なんです。(^^;)
ボクの実家は養鶏業を営んでいて、ここに書いた話は、ボクが小さいころから、それこそ「日常茶飯事」に行われていたことなんですね。
こんな風景を間近に見て育ったものだから、ボクは極端な動物愛護主義や、動物の生命尊重の立場からのベジタリアンには、どうも共感できない。
ペットの殺処分に涙を浮かべて反対する人を見ると、反射的に「自分だってうまそうにフライドチキンや牛丼喰っとるだろうが。鳥や牛の命はいいんかい!」と思い、自慢そうに自分がベジタリアンであることを宣言する人を見ると、「おらおら、あんたの目の前のサラダボールで、引きちぎられた野菜たちが悲鳴上げとるぞ〜」と、なぜか亀田兄弟風に毒づいてしまう(^^;)
「自分が生きるためには、どうしたって他の命を殺さなければならない」という「業」に似た感覚が、骨の髄までしみ込んでいるんですね。なにせ年間8万羽の鶏を殺して、うちら家族は生活してきた訳ですから。
でもだからといって、さっきの話も、もし幼いボクが、脚弱のヒヨコに「ピーちゃん」と名前をつけてかわいがっていたのに、そのピーちゃんを殺す、となると、話も変わってくるし、今回の「子猫殺し」の件は、本当に色々な面から命の問題が考えられる、良い「道徳」の教材になるんですねぇ。
たとえば、以前、NHKでやっていた「自分たちで豚を飼ってそれを食べる授業」のドキュメンタリーや、たしか「マドンナB」という名前で教科書に採用されていた社会科見学で屠殺場に行く話や、あとこれは坂東氏のエッセイと同じ反面教師としてだけど、「大造じいさんとガン」なんかとも組み合わせて、いろいろな授業が考えられる。
こう考えると、やっぱり「坂東さん、ありがとう」と言いたくなっちゃうんですよね〜(^^;)
ありゃ、今日中に2つとも説明しようと思ったんだけど、「道徳」への活用法だけでだいぶ長くなっちゃいましたね。もう一つは、次回に回しましょうか。
あと、一回だけこの件について書きます。
それでは。
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Comment
>ルネさま
お気遣いありがとうございます。
ただ、前回のコメントでも申し上げましたとおり、私自身は坂東氏のエッセイを使って授業をする機会がありませんので、大丈夫だと思われます。
>世間の反応と同じく、理屈ぬきで
過剰に反応する親がいるのも事実です。
「理屈抜きで過剰に反応」今回の事件はまさにそうだったと思います。
別なコメントにも書きましたが、このような流れに対してバランスを取りたいがために今回のような記事を書きました。
私の記事を読むことで不快な思いをする人もいらっしゃるかと思いますが、私の勝手な願いとしては、そのような直感的な反応を少し立ち止まって吟味して、今回のエッセイに関していろいろ考えていただければと思っています。
どうぞ慎重になさってくださいませ。
塾の先生ということですが、
私含め、数人の子供の親に今回の先生の
教材のお話しを聞いてみたところ
世間の反応と同じく、理屈ぬきで
過剰に反応する親がいるのも事実です。
思わぬ方向にいかないことを願っています。
>ルネさん
コメントありがとうございました。
また、重要なご指摘ありがとうございます。
>「殺していい理由と手段と線引き」がわからない子供、その理由を教えてあげられる(←原文まま)大人が多いのが現状です。
法という線引きもある程度、伝えないと食べるための(人が生きるための)殺戮と不必要だと個々が認識した命の殺戮と同じに考えてしまい実行する子供が出てくるおそれがあります。
たしかに坂東氏の行為は日本では法に抵触する犯罪行為である、ということはきちんと伝える必要があると思います。
ただ、私個人としては道徳の時間で「法律で決まっているからダメなんだ」という教え方はしたくない、というかそういう教え方をしても本質的な問題解決にはならないと思っています。(あ、言い忘れましたが、私自身は塾の教師なので「道徳」の授業を実際に行う訳ではありません。あくまでも「道徳」の時間の教材に使えるなあ、と思っただけです)
本文中で私は「『道徳』の授業というのは、『動物をかわいがりましょう!』みたいなスローガンを教えるためのものではなくて、『ある社会的状況において、どのような行動を採ることが自他を一番幸せにするか、を考える授業』だと思っている」と書きました。
これを別な表現で言い直すと、「『道徳』の授業というものは、すでに決められた規則を絶対的なものだと押しつけるのではなく、ある社会的状況において、どのような規則に則って行動するのがもっとも相応しいかを、既成のの規則の妥当性にまでさかのぼって検討する授業」ということになります。
つまり、「規則だからダメ!」という教え方では、「規則なんか知ったこっちゃねえよ!」と言われたらそれで終わりなわけで、それだったら、今回の仔猫殺しの意味を、ヒヨコ殺しなどと比較させて、その本質部分まで掘り下げて考えさせた方が良いのではないか、というのが私の考えなのです。
本文にも書きましたが、今回の「子猫殺し」の件は、本当に色々な面から命の問題が考えられる教材だと思います。人間が行うさまざまな「殺生」の意味を考え、われわれの中にある生き物の命に対する考えの偏りや、無意識のうちに下される判断パターンをあぶり出し、それを意識化することで「殺していい理由と手段と線引き」を考えられるようになる。そしてそうすることで、「食べるための(人が生きるための)殺戮と不必要だと個々が認識した命の殺戮と同じに考えてしまい実行する子供が出てくるおそれ」を回避できるのだと思うのです。
はじめまして。
以前、私も野良猫問題を扱った子供向けのテレビドキュメントにいささか協力し、小学校の先生が道徳の事業でそれを
使ってくださり、生徒さんからのたくさんの感想をもらった経験のあるものです。
教材に使用されるということですが、
忘れないで頂きたいのは、この日本で
仔猫を坂東さんのような理由、手段で
殺すのは、犯罪行為にあたります。
私は、近所のフリースクールの生徒さんとも話し合いをしたことがありますが、
「殺していい理由と手段と線引き」が
わからない子供、その理由を教えてあげられる大人が多いのが現状です。
法という線引きもある程度、伝えないと
食べるための(人が生きるための)殺戮と不必要だと個々が認識した命の殺戮と
同じに考えてしまい実行する子供が出てくるおそれがあります。
慎重になさってくださるようお願いします。
>奈々さん
コメントありがとうございました。
ただ、奈々さんがボクの記事で不快に思われたこと、また今回の記事を教材と思わないで欲しいと思っていることは伝わったのですが、「どうして教材だと思ってはいけないのか」がわかりません。もし、よろしければそこのところを詳しく教えていただけるとうれしいです。
あと、念のために言っておきますが記事中の「坂東さん、ありがとう」というのは皮肉として書いた表現です。決してストレートに「ありがとう」と言ってるわけではありませんので、その点をどうぞ御理解ください。
「教材を提供してくれて坂東さんありがとう。」なんて書かないでください。猫好きでなくとも不快です。
教材なんて思わないでください。
>屍の聲さん
コメントありがとうございます。
そうですか。そんな事情があったんですね。
じつはこの次の記事で、坂東氏がこのような文章を書き、それを新聞に載せたことの意味について書く予定でいたんです。
貴重な情報提供ありがとうございました。
>サクラさん
コメントありがとうございました。
「道徳」の授業に関しては言いたいことがたくさんあって、今回はその一部を書かせてもらいました。
坂東氏の心性についてはたしかに同じような感じをボクも受けていました、ただ、これに関しては、ボクが文章を書くときに心がけている倫理上の問題から、書きませんでした。
その辺の事情も次の記事に書きたいと思います。
温かいコメント、ありがとうございました。
石井先生、初めまして。
今回の件についていろいろ考え、様々なご意見を読む中で、こちらのサイトの内容がとても心に響きました。私も、「理想的な解決策がない今回のような問題では、関わる者の不幸の総和がもっとも低い手段を選ぶしかない」と思っていたもので、「自他を一番幸せにするか、を考える」ということに、深く共感したものです。
坂東さんのエッセイには、ある種の宗教的儀式において体に苦痛を受けることで法悦を得るというものがありますが、ややそれに似た心性を感じました。ご自身はそれである種の幸せを得るにしろ、子猫の受ける苦痛についてはまったく無益なものだという気がします。
私も教師ですので、今回の件は非常に良い教材になると感じました。次のご考察もお待ちしております。
坂東氏は今年の春に角川書店からだした恋愛小説「血と聖」がまったく売れなかったことにショックをうけて精神的に不安定になっていたのです。某賞を獲れるように会社をあげて工作すると編集者が約束したので構想八年の力作を渡したのに、蓋をあけてみたら鳴かず飛ばず、気の毒な面もある。しかし肝心の作品が藤本ひとみの二番煎じでは致し方なし。
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