【月刊ブレスコラム】単純作業の快楽 〜はたしてやる気は必要か?〜 (2006/09) 

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●禁断のジョーカー3枚切り行きまーす!

明日の午後3時が5ヶ年計画のタイムリミットなので、来月分にとっておいたジョーカー2枚のうちの1枚を今回使ってしまおう、という魂胆(^^;)。

今回は月刊ブレス9月号のアップです。題して「単純作業の快楽 〜はたしてやる気は必要か?〜」。

「やんなきゃいけないと分かっているけどやる気が出ない」「うちの子はどうもやる気がなくって」と思っている人はぜひお読み下さい。「やる気問題」は非常に大きくて、入り組んでいるため、万能の解決策はなかなかないのですが、このコラムがひとつのヒントくらいにはなるかも知れませんよ。

(でもこの画像のジョーカー、やる気なさそうでいいよねぇ(笑))



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ちゃんと無理してますか? 〜生存証明〜 

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●更新滞ってゴメンナサイ。

いや〜、実は今、今後5年間の会社の経営計画を策定中で、それが忙しくてなかなか更新できませんでした。

で、けっこう肉体的にも精神的にも追いつめられてはいるんですが、それと同時に頭の片隅で「なんかオレ、きちんと無理してるなあ」って気持ちよく感じている自分もいるんですね(^^;)

まあ、世間一般では、健康のためには、なるべくストレスを避け、無理をしないのが一番、ということになってはいるんですが、そこはひねくれ者のボク、「無理してみなきゃ自分の限界は分からないし、無理することで今までの自分の限界が広がって、精神も肉体も強くなっていくんじゃないの」とも、思っているんですね。

だから仕事が積んできて、心も体もチリチリしてくると、つらいと思うと同時にちょっと気持ちよい(^^;)

自分が限界だ思っていた壁に立ち向かって、克服できるかな、という不安とともに、やったるぞ、という気持ちで妙にワクワクするんですね。

受験も最後の最後は精神力って面もあるし、精神力を鍛え、自分に自信をつけさせるためにもやはり受験生には、ある程度無理をさせる必要があるんじゃないかな、と今回自分が無理をしてみて思いました。

これからは、「無理しないでね」という言葉と同じくらい、「ちゃんと無理しなさいね」と、受験生に言おうかな(^^;)

じゃ、仕事に戻るので、今日は軽めにここまで〜

食とコミュニケーションの原点 〜わが家の断乳日記〜 

タンポポ タンポポ
山崎努 (2005/09/22)
ジェネオン エンタテインメント

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●一段落したら書こうと思ってたんですけど、2週間程前にわが家では桶谷式による「断乳の儀(?)」が執り行われました(^^;)。

まあ、平ったくいうと、息子君におっぱいを飲ませるのをその日でやめた、ということなんですけど、これが「泣けて」「痛くて」「眠くて」「しみじみする」儀式だったんです。

まず、最後の授乳のシーン。

一ヶ月前から言いきかせていたとはいえ、これが最後のおっぱいになるとはつゆ知らず、いつもどおり無邪気にテキトー(笑)におっぱいを飲む息子君。そんな彼の様子を見て、ほぼ1年5ヶ月にわたる授乳の苦労を思い出して涙する妻……

思い返せば、生まれた直後の昼夜を問わない2時間おきの授乳、自分の時間がまったく取れない生活、すこし食べ物を油断するとすぐに発症してしまう痛い痛い乳腺炎、ホント妻は苦労しっぱなしでした。きっとそんな思い出が湧き出てきたのでしょう。脇で見ていただけのボクでさえ、「泣ける」シーンでした。

そうして最後のおっぱいをあげ終わってしばらくすると、今度は飲まれないおっぱいが胸にたまって、それはそれは「痛い」時期に入ります。

キャベツや冷えピタなどで冷やしても、焼け石に水状態で、妻は仰向けに寝られない様子。その上、おっぱいが飲めなくなった息子君が、おっぱいを欲しがって、とことん泣きわめくものだから、ホント消耗します。昼間のうちにとにかく遊ばせて疲れさせておいたのに、どこにそんな体力が残っていたの? というくらい息子君が泣き続けるものですから、そりゃあもう大変でした(^^;)。

結局、夜中に起きた時も同じようなことが繰り返され、二晩ほどそんな状態が続きました。おかげでこちらは二人とも寝不足(=_=)……。ホントに「眠い」儀式でもありました。

で、今日ですでに「断乳の儀」から2週間が経ったんですけど、もう息子君もほとんどおっぱいを欲しがらなくなり、おっぱいがなくても「スコン」と寝てくれるようになりました。それも朝まで(^^)

妻は、「授乳している時は早く終わりにしたいと思っていたけど、いざ終わりにしてみるとなんだかさびしい」といっています。

そりゃそうだよねぇ、と脇で見ていただけのボクもしみじみ思います。

お腹いっぱい、おっぱいやミルクを飲んで、幸せそうに笑う子供の顔。哺乳ビンを含ませたり、おっぱいをあげながら目と目で交わす言葉のいらない濃密な会話。授乳には、母と子の間でしか得られない充実したコミュニケーションがあります。

息子君が生まれて病院から退院してきた晩、実家で授乳する妻の様子を見ていて、「ああ、本当ににわれわれは“哺乳類”なんだな」と深く納得した覚えがあります。“ヒト”としての最初の食べ物はたしかに“乳”でした。

さらに今回、ボクは授乳には“人間”としてのコミュニケーション形成の第一歩という面があることを痛感しています。むか〜し発達心理学を大学で学んだ時、最初は赤ちゃんは自他が未分化だという話を聞きました。それが「おっぱいを飲む」という行為を通じて、母という最初の他者を知り、だんだんと他者とのコミュニケーションを学んでいく。それを目の当たりにして、ボクは本当に「しみじみ」と、祖先から自分に至り、そして子孫へと続いていく人間の営みというものを感じたのです。

おっぱいを卒業した息子君は、これから食とコミュニケーションの次のステップに進みます。食べ物の方はすでに授乳していた時の約2倍の分量を食べるようになっています(^^;)。そしてコミュニケーションのほうは、だいぶ意思表示がはっきりしてきて、そろそろ言葉らしき物をしゃべり出しそうです。息子君。父はその日を楽しみにしているぞ(笑)。

そしてとりあえず、ここまで大酒飲みならぬ大乳飲みの息子君に豊かな食とコミュニケーションを与えてくれた妻には、感謝、感謝です。

いままで、本当にありがとうね。

さて、冒頭の画像なんですが、これは伊丹十三監督の『タンポポ』のDVDです。

なんで唐突にこの映画なのかというと、じつはこの映画のラストシーンが実に秀逸だからなんですね。(ネタバレがイヤな人はここから先は読まずに、レンタルビデオ屋へどうぞ^^;)

この映画、伊丹監督の第2作で、簡単に説明すると「“タンポポ”という未亡人が切り盛りするさびれたラーメン屋を、流れ者のトラック運転手“ゴロー”が行列の出来る店に立て直すという話を縦糸に、食に関する悲喜こもごもの人間模様を絡めて、いかにも伊丹流に仕上げた映画」ということになります。

“タンポポ”を演じるのはもちろん宮本信子。そして“ゴロー”は山崎努。他にも若い頃の役所広司や渡辺謙、これが遺作となった大友柳太郎など、そうそうたるメンバーの出演で、海外でも評判になりました。

さて、「シェーン」を下敷きにしたこの映画。件(くだん)のラストシーンは、ラーメン屋を立て直した“ゴロー”が、“タンポポ”の元をトラックに乗って去るところから、こんな風につながっています。

最初はゴローの視点で、立派に立ち直ったタンポポをバックミラーに見ます。次にカメラが切り替わると今度は首都高(?)をゴローの乗ったトラックがだんだん小さくなっていく。そこでカメラはパンして、道路脇の公園に寄っていく。公園のベンチには赤ちゃんをだっこしたお母さんが腰掛けていて、だっこされた赤ちゃんは無心に……

もう書かなくてもお分かりですよね。人間の最初の食べ物、コミュニケーションの原点。それがこの映画のラストシーンなんです。

のどかな手風琴の音楽と相まって、いま見直すと、いいんだなあ、このシーンが…。

もし見る機会があったら、ぜひ、最後のこのシーンまでじっくり見てください。心がホッとしますよ(^^)。

それでは。



【月刊ブレスコラム】選択と集中 〜勉強におけるブレイクスルー〜 (2006/08) 

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●2枚目のジョーカー切ります〜

いいなあ、2枚ジョーカーがあるって(^^)

さて、画像はオムツ一丁で苦手な「キモッチ」(NHK教育の「わたしのきもち」にでてくる紙コップのキャラ)に立ち向かう息子君です。

もうこの頃は、部屋中をかけずり回ってきゃっきゃ言ってたのですが、今回のコラムを書いたころには、やっとよちよち歩きを始めたころだったんですね。

なんだかもう、歩き出すとずっと前から歩いていたような気がして昔のことは忘れてしまうんですけど、なんだか不思議な感じがします。

そんな息子君は、いまはドアノブ回しを一生懸命練習中。

ブレイクスルーを起こして、軽々とドアを開けるようになったら……

さらに目が離せなくなって、こっちが大変です(@_@)

でも、そんなことお構いなしにどんどん成長してっちゃうんだろうなあ……

さて、今回のコラムは勉強におけるブレイクスルーについて書いてます。

ぜひ、最後までお付き合いください。

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“再生”って何よ、それ? 

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●今日、何気なくネットでニュースを見ていたらこんな記事が。

<教育改革>「再生会議」が初会合 教員免許更新など検討へ
 政府は18日、安倍政権の最重要課題である教育改革を検討する「教育再生会議」(座長、野依良治・理化学研究所理事長)の初会合を首相官邸で開いた。安倍晋三首相は冒頭「すべての子どもに高い学力と規範意識を身につける機会を保障するために、公教育の再生や家庭・地域の教育力の再生が重要だ」との方針を示し、教員免許更新制度や学校評価制度の導入の検討を要請した。
 来年1月に中間報告を出し、予算措置が必要なものは来年6月にもまとめる「骨太の方針」に盛り込む。
 首相と17人の委員、伊吹文明文部科学相らが出席した。首相は具体的な検討課題として(1)質の高い教育提供による学力向上(2)規範意識や情操を身につけた美しい人づくり(3)地域ぐるみの教育再生――の3点を提示。その後の討議では、いじめによる生徒の自殺も取り上げられ、義家弘介・横浜市教育委員が「脱落した子を受け入れる仕組みがない」と新たな制度づくりの必要性を強調した。(後略)
【平元英治】(毎日新聞) - 10月18日12時50分更新



いやね、いいんですよ。べつに新内閣が教育に関して改革を行っても。

ていうか、だいたい政権が変わると、かならず教育改革って行われるものだし、こっちは日本では珍しい許認可が一切要らない業界なので、基本的に影響はない。法律がどう変わろうと、ただ教育のメインストリームの歪みを補正するサービスを提供し続けるだけだし。

でもね。「教育再生会議」って名称はどうかと思うんですよねぇ。

だって、「再生」ですよ、「再生」。

「再生」っていうのは辞書で引くとこういう意味です。

さい‐せい【再生】

[名](スル)

1 衰え、または死にかかっていたものが生き返ること。蘇生(そせい)。「汚染していた川がやっと―した」

2 心を改めて正しい生活に入ること。更生。「―の道を歩む」「―の恩人」

3 再びこの世に生まれること。再誕。

4 廃物を加工して、再び同種のものをつくり出すこと。「―テープ」

5 録音・録画したテープやディスクを装置にかけ、もとの音声・画像を出すこと。「ビデオを―する」

6 生体の一部分が失われた場合、その部分が再びつくりだされる現象。トカゲの尾、カニの脚などでみられる。

7 心理学で、過去に学習または経験したものを思い出すこと。→再認

[ 大辞泉 提供:JapanKnowledge ]



今回の「教育再生会議」の「再生」は、上のどの意味で使っているんでしょうね。

まあ、おそらく1番の意味を念頭において、この名称を思いついたんだろうけど、今の教育ってそれほど「衰え、または死にかかってい」るんだろうか。

そもそも、「生き返る」ことを目指すということは、昔は健康で健全な教育が行われていたっていうこと?

たしかに、いじめや子供による凶悪犯罪のニュースを聞くと、今の教育が「衰え、または死にかかってい」るような気がするけど、でもそれって現在特有のことなんだろうか?

ボクが中学生の頃は校内暴力が華やかりし(笑)ころで、ボクも更衣室に呼ばれて先輩にボコボコに殴られたり(生意気だったので^^;)、同級生が内臓破裂で入院したり、そりゃあひどいもんだったけど、その時も「今の教育は瀕死の状態だ」って言われてたなあ。

もっと前には「エレキギターを持ってるのは不良」「ビートルズのコンサートに行った者は即、退学」なんて、今では信じられないことを「問題視」して「教育が荒廃している」なんて言っていたし、少年による凶悪犯罪の件数自体は、昭和20年代から30年代の方が今より多かった。

さらに戦前の旧制中学や高校では、「鉄拳制裁」という名の生徒間のいじめは日常茶飯事だったし、いわゆる「問題児」っていうのは、いつの時代にもいたもんです。

そもそも教育(特に公教育)っていうのには、どうしてもその時代に要請される人材を輩出するための「洗脳&適応訓練システム」という側面があるから、そのシステムに馴染まない子や、そのシステムに反抗して、いわゆる反社会的な行動を起こす子は、必ず一定量は存在してしまうものだと思うんですよね。

だから教育というのはつねに何らかの問題を抱えているものだし、本質的に教育システムそれ自体で、「健康」で「健全」なものなどないと思う。結局、教育というのは永遠にシステムの欠陥をフォローし続ける必要があるものだし、そこにボクら塾の存在意義もあるんですよねぇ(^^;)

で、最終的にボクが何を言いたいのかというと、「再生」と名乗らなければならないほど現状をことさら悪く見積もる必要もないし、「再生」してめざすべき「健康」で「健全」な教育システムなど、過去の日本にも現在の他の地域にもない、ということ。そして我々が考えるべきことは、未来において、この日本にどんな人材がどのくらい必要になるのかを現実的、かつ具体的に算定し、それをなるべく生徒を不適応に陥らせないで実現させるためには、どんな教育システムを構築すべきか、ということであり、そのためにも「再生」とか「美しい人」なんていう意味不明の言葉を使うのはやめて、「30年後の日本が国際社会で存在感を発揮するために必要な人材が持つべき資質を考える会」とか、「強制によらない反社会的行動を最小限にくい止めるための教育プログラム開発委員会」とか、なにを話し合う会なのか明確に分かる会を作ろうよ、ということなのです。

えらい長回しのまとめになっちまいましたが、今日はこの辺で(笑)。

ps.冒頭の味のある教室の写真は「列島宝物館」のサイトからピックアップさせていただきました。

頭と体と言葉の関係 〜面接試験の練習法〜 

ダンス・ダンス・ダンス〈上〉 ダンス・ダンス・ダンス〈上〉
村上 春樹 (2004/10)
講談社

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●最近、推薦入試などの面接対策をすることが多くて、塾生相手に面接官の役をよくやっています。

で、この面接の練習をすると、よく、表題にあるように頭と体と言葉の関係について考えることが多いんですね。

結論から言うと、原則的に、頭で考えすぎると言葉が出なくなり、逆に、体にまかせすぎると言葉が暴走する、という傾向がある。

ちょっと横道にそれるけど、そもそも面接試験も小論文と同じく、コミュニケーション能力試験なので、試験官は、話す内容と同じくらいか、それ以上にその受験生が話し言葉できちんとコミュニケーションが取れるかどうかを評価しているんですね。

だから最悪なのは、原稿丸暗記の人間テープレコーダー型。

特に、「志望理由」なんか、みんな原稿を事前に用意してくるものだからひどいもんです(^^;)「志望理由は?」という質問がスイッチになって、あとはテープレコーダー(古い?)が再生されるように、滔々と暗記した原稿を読み上げ出す…。2秒後には誰も聞いちゃいません(>_<)

まあ、最初はみんなそうなので、まず面接の時は、ネタだけ色々用意しておいて、その場その場で試験官の要求に応えて言葉を紡ぐんだよ、と教えてあげて、最初から原稿なしでやらせてみると、これが十人十色というかなんというか、それぞれの個性が出ていて、受験生には悪いけど、非常におもしろい(^^;)

緊張のあまり、ベラベラベラベラどんどん言葉があふれてきて、何を言っているのか分からなくなる人、逆に、「うっ」と言ったきり、言葉につまって目を白黒させる人、怒ったように顔が真っ赤になる人、うるうると涙目になってしまう人、吹き出してしまってしゃべれなくなる人、それこそ「人それぞれ」「人生いろいろ」(笑)って感じです。

で、そうやっていろいろな受験生を見てきて気がついたのが、冒頭に述べた、頭で考えすぎると言葉が出なくなり、逆に、体にまかせすぎると言葉が暴走する、という傾向なんですね。

頭で考えすぎて言葉が出てこなくなるタイプ(これをボクは「●●型」と呼んでいるのですが、汚いのでここでは「コーラック型」と呼びます)は、自分の言葉に対していちいち頭がチェックを入れるので、体がスムースに動けなくなって、結果として言葉が出てこなくなってしまう。

一方、体に任せすぎて言葉が暴走するタイプ(もうお分かりですね。「●●型」=「正露丸型」です)は、頭であまり考えずに体の「反射」で言葉を紡いでいくものだから、試験官の要求を咀嚼しないまま反応してピントはずれのことを言ったり、話しているうちにどんどん関係のない方に言ってしまって、最後は支離滅裂になったりするんです。

だから、「コーラック型」の子には、つっかえつっかえでもいいから一回答えを言わせたら、それを間髪入れずに何回も何回もくりかえし言わせる練習をさせます。

「もう一度」「もう一度!」「はい、もう一度!!」と、頭が考えるスキを与えずに、体が自動的に言葉を紡ぐようになるまで、たたみかけるのです。

こうするとたいがいの「コーラック型」の受験生は、体がだんだん動きだし、言葉がなめらかに出るようになってきます。

逆に「正露丸型」の受験生には、「なるべく早く句点“。”をつけて言い切って!」「一回句点をつけたら、次に何をしゃべるべきか考えてから次の文を始めて!」と説明して、一文一文区切りながら答える練習をします。

そうすると、だんだん正露丸が効いてきて(?)ちゃんと中身のある●●●、もとい、答えが出てくるようになるのです(笑)。

結局、面接試験はピアノやダンスと同じなんだ、とボク自身は思っています。

運指やステップをおぼえる時(=答えの内容を考える時)は頭を使うけれど、いったん演奏や演技(=面接)が始まったら体に任せる。そして、体がいい調子で動き出したら、今度は暴走しないように頭の片隅をすこし冷静に保って体を制御する。

聴衆や観客(=試験官)の視線を感じながら、自分が一番輝いて見えるよう頭の隅で計算しつつ、体の奥から湧き出てくる情熱に身を任せて自分を表現する……。ホント、そっくりです。

面接試験も、試験官と会話のアンサンブルを楽しみ、試験官にこの学生とだったら入学後に気持ちの良いダンスが踊れそうだ、と感じてもらうのが理想です。

だから今日もボクは「コーラック」と「正露丸」をもってダンスのレッスン、ではなくて、面接の練習をするのです。

今回はキタナい話になっちゃってゴメンなさいね(笑)。

【言有宗コラム】「読む」とは何をすることなのか?〜前編〜(2006/08) 

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●今月はこんな早くからジョーカーを切っちゃいます(^^;)

なぜなら、今月はジョーカーを2枚持っているからなんですね〜

じつは7月は論文オンラインの「言有宗」と学習塾ブレスの「月刊ブレス」と両方のニュースレターにコラムを書いたんです。だから今月は2回、過去のコラムの発表でブログの更新が出来るという訳。

今日は「言有宗」の方のコラムをアップします。

タイトルは「『読む』とは何をすることなのか?」というちょっと理屈っぽいヤツなんですが、なるべく分かりやすく書いたので、最後までお付き合いいただければ嬉しいです。

あ、そうそう。冒頭の画像は大英博物館にある「ロゼッタストーン」。ヒエログリフの解読のきっかけとなった碑文です。じつは今回のコラムのタイトルを「記号解読のススメ」にしようかと最初に思ったんですね。それを思い出して載っけてみました。どうしてそんなタイトルにしようとしたのかは、本文をお読みいただくと分かるようになってます(^^;)


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長かった梅雨も、もうそろそろ終わりのようですね。
 地方によっては大変な雨量で災害に見舞われた地方もあったようですが、受講生のみなさまの地方はいかがだったでしょうか。
 さて、今月と来月は、「書く」前提となる「読む」という行為について考えてみたいと思います。題して「『読む』とは何をすることなのか?」です。

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「怒りの日」 〜人はなぜ怒るのか〜 

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●まあ、これは当事者、および関係者の目に触れる可能性が、ほぼ100%ない、と思えるので書くのですが、先日、久々に「怒りに我を忘れた人」と出会いました。

それは近所のお弁当屋さんに、いつもの「特のりタル弁当(太る)」を買いに行った時のことなんですけど、一人のおばさんが店員に向かって、それこそ食いつきかねない勢いで怒っていたんです。

ちょっとその時の会話を再現してみますね。(カッコ内はボクのココロの声)


おばさん:「だからスペシャル弁当6つを12時って言ってあったじゃない!」(え?12時ってまだ11時45分だぞ〜)

店員:〈一生懸命準備しながら〉「はい、申し訳ありません。いますぐご用意します」(あ〜あ、かわいそうに)

おばさん:「なんでひとつの袋に入れるのよ!! こっちは6人いるのよ」(いや、だからって袋が6つ必要ってことにはならんが…)

店員:「申し訳ありません。いますぐ入れ直します」〈といって6つの袋に別々に入れようとする〉

おばさん:「あんたバカじゃない? 袋を6つその中に入れればいいでしょ!」(じゃあ、最初からそう頼めよ。それに必要なのは5枚だし^^;)

店員:〈ビビりながら言われたとおりにして〉「それでは、お会計お願いいたします」

おばさん:「そういうのはあらかじめ計算しておかなきゃダメでしょ! こっちは忙しいんだから。んもう、まったく人をバカにして〜!!(おいおい、忙しいのはあんたの都合だろ? 人バカにしてるのはどっちだい?)



とまあ、こんな感じでおばさんは店員に悪態をつきつづけて、最後は店のドアをバーン!と閉めて出て行きました。

もう、店員さんもその時店にいたお客さんも、みんな唖然。

「な、なんじゃ、ありゃ〜」って感じで、店内の人々の間に、なんだか不思議な連帯感まで生まれて、顔を見合わせて苦笑いしてしまいました。

それでもって、仕事場に戻って「特のりタル弁当(太る)」を食べながら、ああいう人の心理ってどうなってるんだろう、とつらつら考えてみたんですけど、結局、あのおばさんは自分に自信がないんだろうな、という結論で自分としては納得しました。

たしか『ものぐさ精神分析』で有名な岸田秀(←最近叩かれてますが^^;)だったと思うのですが、人が怒りの感情を持つのは、ほとんどの場合、その人の自我が脅かされた時だ、というようなことを言っていました。

つまり、自分が正しいと信じている主義主張や、大事だと思っている人や物事に対して、他人が同じように反応してくれないと、あたかも自分が否定されたかのように感じて不安になり、その不安を解消するために他人に対して怒りの感情をぶつけるのだ、というのです。

たとえば、「人間はまじめに汗水垂らして働くべき」という信条を持っている人は、昨今のマネーゲームの寵児たちに、当人のことを個人的には何にも知らなくても怒りの感情を持つでしょうし、逆に「汗水垂らして働くのはバカだ」と信じている人は、コツコツ働いて、それでいて幸せそうな人に対しては、必要以上に感情的な嘲りの言葉を浴びせるようになる、という訳です。

結局、誰に対してどのくらい怒りの感情を持つか、というのは自分の中にある「〜であるべき」の質と量に比例する、ということなんでしょうね。

でもって、原則的に自分に自信がない人ほど、自他を「〜であるべき」で強く固めてその中に安住しようとする。なぜなら「自分の知らない自分」に出会ったり、予想外の他人の行動に適応するのはとても不安だからです。

でも、未知の自分も赤の他人も、そんなことお構いなしに「〜であるべき」を破って自我に侵入してくるものだから、自分に自信のない人は、しょっちゅう怒っていることになる。

きっと、あのおばさんの中には、がっちりと「こうあるべき」という状態ができあがっていたんでしょうね。ところがそれがいとも簡単に破られたものだから、自我が揺らいで不安になり、どんどんどんどん怒りの感情がエスカレートしてしまった。

そう考えると、あのおばさん、ちょっと可哀想になってきました。

当人は気づいてないかも知れないけど、もしかすると不安で不安で仕方がないのかも知れない。ちょっとしたことが上手く行かなかっただけで、なんだか全人格を否定されたような気がして、余裕がなくなって自分を守ることで精一杯で、パニックに襲われて他人を攻撃して、それでさらに余裕がなくなって…。

ボク個人としては、結局、怒りの感情の源泉は、すべて自分の内部にある訳だから、今後は他人に対して強い怒りの感情が出てきたら、それは自分のどんな「〜であるべき」から来たものなのかを冷静に分析して、怒りの感情に乗っ取られないようにしたいですね。最後は自分の気持ちの持ちようなんだしね。ま、ムズカシイけど(^^;)

さて、最後におまけ画像。前回に引き続き、映画『シャイニング』から、怖〜い、ジャック・ニコルソンです。

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何でかというと、この映画のオープニングの音楽が、今日の記事のタイトル『怒りの日』だったから。たいして関連性がある訳でもないのだけれど、なんとなく思い出しのたので載っけてみました(笑)

そういや、原作者スティーブン・キングは、自分の子供に原稿をいたずらされた時に感じた「殺意に近い怒りの感情」をもとに、この作品を書き上げたんだそうです。

怒りの感情も、天才の手にかかればこんなスゴイ作品に昇華するわけだから、まんざら捨てたもんじゃないのかも知れませんね。

それでは。

「似て非なるもの」の取り扱い方 

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●画像はスタンリーキューブリック監督の『シャイニング』から。

「似たもの」といえば双子だろう、ということで引用しました。

でも、今日の記事内容とはまったく関係ありません(^^;)

さて、昨日のYahoo!ニュースに面白い、というか、なつかしい(?)記事がありました。


【中国】「日本が売りに出ている?」同じ漢字でも(1)

 はじめに笑い話をいくつか。

 街のあちこちにまだ銭湯があった頃の話。たいてい「湯」と書いた看板が出ていたり、のれんがぶらさがっていたりした。これを見た中国人留学生、「日本人は湯が好きだとは聞いていたが、これを専門に売っている店がこんなにあちこちにあるとは。それにしても男用の湯と女用の湯とはどう違うのだろう?」――「湯」は中国語ではスープの意。洗面器が味噌汁を飲むお椀に見えたかも。

(中略)

 これは留学生らしき数人の中国人がバスの中でふざけあっているのを私自身が目にした話。「おっかないバスだね」「降りようか?」。彼らの視線の先には、「毎度ご乗車有難うございます」とあった。漢字だけ拾っていくと、「乗車のたびに遭難する」となる。

 極め付きは、「大日本帝国が売りに出ている!」。「本日大売出」の横長の幕を反対から読むと、「大日本売ります」となる。

(中略)

 漢字を共有しているということは、日本人にとっても中国人にとっても相手の言葉を学ぶうえで断然有利な条件であることは言うまでもないが、時にこの有利な条件が逆に作用して、思いがけない行き違いを生じさせたり悲喜劇を演じかねない。

 79、80年の2年間、一家で北京に滞在していた。メールなどという便利なものはまだなかったし、国際電話は驚くほど高かった。小学生の息子と娘の楽しみは、日本にいるふたりの祖母から来る手紙であった。滞在して間もない頃のある日、定時に服務員が部屋に届けてくれるのを待ちきれずに詰め所まで出向いていき、まだおぼつかない中国語で「手紙はありますか」とやったらしい。息子が浮かぬ顔でトイレットペーパーを抱えて戻ってきた。「手紙」は中国語で「トイレットペーパー」のことである。(後略)(執筆者:上野惠司)

(サーチナ・中国情報局) - 10月4日15時18分更新



今から十何年前、ボクが日本語教育の勉強をしてたころ、日本語教育法のテキストを見ると、必ず出ていたのがこの中国語の「手紙」の話。

たしか、この記事と同じように、学習者が中国人や台湾人の時は、漢字を共有しているからと言って油断しないように、という文脈で紹介されていたような気がします。

ちょうどその頃、韓国や中国などアジアを旅行することが多かったボクは、肌の色や顔付きなどはそっくりなのに、すこし深く付き合うと(といってもたかが知れてますけど^^;)日本人のボクにはどうしても理解できない思考や行動のパターンを持つ彼らをみて、外見が似ているからと言って中身も同じだと考えてはいけないのだなあ、と納得したのを覚えています。

つまり、当時のボクは、外見が似ているというだけで、きっと相手も同じように考え、行動するに違いないという先入観をもっていたわけで、要するに相手に甘えていたわけです。

それとは逆に、アメリカで日本語を教えていたときは、アメリカ人も「本音」と「建前」を使い分けるんだなあ、とか、嫁と姑はやっぱり仲悪いじゃん! とか、ちょっとした共通点を見つけてはビックリしていたんだから、先入観ってやつは恐ろしいもんです。

「同じはず」という先入観は、不意の拒絶による傷心を招き、「違うはず」という先入観は、交差するはずの気持ちを永遠に遠ざける。

理想は、なんの先入観もなく、自然体で相手に向き合うことなのだろうけど、凡夫のボクにはなかなか難しいです。

それでは。

軽井沢「おこもり」日記(リラックス編) 

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●どうです? うまそうでしょ?

小鳥のさえずりを聞きながら飲む、本格的なエールはまた格別でした(^^)

今日は軽井沢「おこもり」日記のリラックス編。

今回の「おこもり」は、仕事に集中した3日間でしたけど、メリハリをつけるため、一日一つはリラックスするための「ごほうび」を、自分にプレゼントすることにしました。

初日の夜は別荘の近くにある「星野温泉 トンボの湯」へ。

やさしい泉質の源泉かけ流しの温泉で、露天風呂がまたイイ感じ(^^)

大きな岩風呂は周囲を森におおわれて、空を見上げれば雲間に星がまたたいています。

これは天気の良い昼間に入ったらぜったい気持ちがいい!と確信して、思わず二日目の予定を変更して、次の日は朝一番で露天風呂に直行してしまいました(^^;)。

(↓)人気の温泉らしく、朝から並んで始まるのを待っています。

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ボクも列に並んで露天風呂に一番乗りしました。

予想通り、気分は最高!

森に囲まれたうろこ雲のうかぶ青空を、地上からのぞき込みながら、じっくり暖まって、湯上がりには、冒頭の画像にある「リアルエール」をいただきました。

うまいんだなあ、これが(^^)。

ほんのり酔っぱらって、歩いて別荘までもどる道のりが、また肩の力を抜いてくれて、100%リラックスモード。すっかりいい気分になってしまいました。

それでもって、最終日の朝は早起きをして、別荘から車で5分ほどの駐車場に車をおいて、そこから歩きで2〜30分の「千ヶ滝」へ。

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これまた、だ〜れもいない山道を、川の音と鳥の声だけを聞きながら歩く絶好のハイキングコースで、日頃の不摂生のせいで少し息が上がりながらも、なかなかいい運動になりました。

落差はそれほどではないものの、澄んだ水が落ち込む滝壺から湧き出るマイナスイオンを体中に浴びて、すっかりリフレッシュ。なんだか心にシャワーを浴びた感じです(^^)

……とまあ、こんな感じでポイントポイントでリラックスしてきたんですけど、いま考えてみると、このリラックスタイムが、今回の「おこもり」にとって非常に重要な働きをしていたんだなあ、と思わざるを得ません。

リラックスしている時は、なるべく仕事のことを考えないようにしてきたんですけど、結果としてはそのおかげで仕事の時にいろいろなアイディアが出てきたような気がするんですね。リラックスしてボーっとしている時も、なんか無意識が考え続けていたような、そして言葉にならぬ言葉が自分の中で渦巻いていて、そこからポッと新たなアイディアが出てきたような気がするんです。

同じ姿勢を続けると体が凝るように、心も同じ状態、同じ環境に居続けると凝るものなのかも知れません。

いまは軽井沢のリラックスタイムのおかげで、だいぶ心の凝りもとれ、気分もずいぶん楽になっています。

この感じを忘れずに、時々リラックスして心の姿勢を変えながら、明日からまた、お仕事、お仕事です(^^;)。

これから年末にむけてがんばらないとね。

さて最後は、軽井沢旧道沿い「鳥勝」さんの鳥の丸焼きの画像をどうぞ。

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この鳥の丸焼き。塩だけのシンプルな味付けなのに、ロースターでじっくり焼き上げられて、深〜い滋味が凝縮されて、個人的には「軽井沢に来たならこれを買って(あるいは食べて)帰らないと意味がない!」とさえ思っている逸品です。

これの焼きたてのあつあつを、妻と息子君と妻の両親へのおみやげに買って新幹線に飛び乗り、今回の「おこもり」は、無事終了したのでした。

はい。それでは、ごちそうさま。

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軽井沢「おこもり」日記(お仕事編) 

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●昨日「おこもり」から帰ってきました。

「おこもり」って何をしていたのかというと、軽井沢の別荘(といっても“貸”別荘ですけどね(笑))で2泊3日して、仕事や家庭の今後のことを独りでいろいろと考えてきたんです。

上の画像は別荘の周りの様子。

カラマツの森の中に別荘が点在して、それはそれは静かな環境でした。

散歩中にカサコソと音がするので音の主を探すと、リスが栗のイガを一生懸命開けようとしていたり、遠くのせせらぎの音と風でカラマツ林が鳴る音が一緒になってボクの体を包み込んだりと、ふだんは国道沿いのうるさ〜い環境で生活しているボクとしては、新鮮な静寂体験でしたねえ。

で、そんな恵まれた環境でどんな風に仕事をしていたかというと、こんな感じです。

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それでもって机の上は、こんな感じ。

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6人掛けのダイニングテーブルに書類とPCを広げ、借りてきたCDウォークマン(ipodをもっていないので^^;)で音楽を聴きながら、アイディアをメモし、電卓を叩き、エクセルでシミュレーションをし……、って、それじゃあ、わざわざ軽井沢に行く必要ないじゃん! とつっこまれそうな仕事風景です(^^;)。

でもね、今回の「おこもり」。ホント、やってよかったです。

じつは正直に告白すると、ここ数ヵ月間、自分的にはかなりのスランプだったんですね。

な〜んか、仕事にキレがないというか、ワクワクしないというか。アイディアもあんまり出てこないし、決断力も鈍って優柔不断になっていたりして、悶々としていた。

でも、今回「おこもり」をして集中的に考えを整理したら、だいぶすっきりとやるべきことが見通せるようになった。

なんだか“日常”という名の濁流に呑まれて、どこに流されていくのか分からなかったのが、岸に上がらせてもらって流れの行き先を見せてもらった感じなんです。

アイディアもいろいろ湧いてきて、最終日ともなると、ダイニングテーブルいっぱいにアイディアメモが広げられ、「いとすさまじ」って感じでした(写真は初日の午後の様子なのでまだカワイイもんなんです)。3日間で書きためたメモは、厚さ3センチにもなり、それをこれから整理するのですが、「こりゃ大変だ」とこぼしつつ、内心はうれしい悲鳴をあげています(^^)

結局、「おこもり」というのは、外部からの情報を遮断して、自分の中だけで思考のループをつくることなんでしょうけど、今回実際それをやってみて、そのあまりの効果に愕然としました。良い、良い、とは聞いていたけど、まさかここまで、という感じ。

だから、仕事にせよプライベートにせよ、なんだか最近パッとしないなあって思っている人は、ぜひ「おこもり」に挑戦して欲しい。別に山の中の一軒家でなくても、要は日常から遮断されればいいので、都心のホテルでも海外でもいいです。ぜひ「独り」で、どっぷり思考のループにはまってみてください。きっとなにか解決の糸口が見えると思いますよ。

それにしても、今回ボクに独りの時間をくれた妻と息子君、それに留守中2人をサポートしてくれた妻の両親には感謝、感謝です。今度は一緒に行こうね。9月の軽井沢は本当にしっとりしていてよかったよ〜

というわけで、明日は、そんな9月の軽井沢の様子をちょっとだけお伝えします。

題して「軽井沢『おこもり日記』(リラックス編)」です。

それでは、お休みなさい。