坂東眞砂子氏に感謝する(その3)  

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●しつこいようですが、またまた、「前回」「前々回」と同じこと書いておきますね。(^^A;)

えーと、まず最初に言っておきますが、この記事のタイトルは、今回問題となった坂東氏のエッセイの内容に対して賛同し、よくぞ言ってくれた、という意味のものではありませんので、そこんとこヨロシク!(笑)

早とちりして、「この鬼畜!」みたいなコメントはしないでくださいね〜

あと、事前に言い訳しておきますが、今日はいろいろ他の掲示板やブログに関する話が出てくるのだけれど、原則的にソースは明らかにしません。これは、ふだんボクが授業や自分の本の中で主張していることからすれば、本当はいけないことなんだけど、いろいろとTBやコメントが煩雑になるのと、なによりブックマークしないでいろいろ読んでいったので、どこにどんなことが書いてあったのか、わかんなくなっちゃったからなのです。(^^;) だからボクの主張の真偽を、ソースを辿って確かめられなくなってるんですが、どうかご容赦を(平伏〜)。

さて、「子猫殺し」のエッセイが、いろいろな「教材」に使えて、坂東さんどうもありがとう、という主旨で論じてきた今回の記事も、今日でもう3回目。それでもって最終回です(予定)。

でもって今日は、このエッセイ、というかこのエッセイをめぐる今回の騒動を、なんの「教材」として使うかというと、「文学理論」や「テクスト論」、難しげに聞こえるかも知れませんが、まあ、平たく言うと「文章とどうつきあうか」を教えるのに役に立つと、ボクは思っているんですね。

今回のこの騒動、すべては坂東氏の書いた不気味なエッセイから始まっているんですが、それに劣らず不気味だったのは、その後に起こった坂東氏個人に対するバッシングの嵐でした(です?)。

「この鬼畜!」「コイツ頭が変だよ!」「欲求不満の異常人格者め!」

といった坂東氏個人に対する罵詈雑言が、某巨大掲示板や数多くのブログにあふれ、その様子は、さながら「魔女狩り」のよう。

また、ここまで、感情的にならずに冷静に今回のエッセイに関して論じている記事にも、坂東氏個人の資質について論じているものが数多くありました。

たとえば、彼女の他の作品まで引き合いに出して、子猫殺しにいたる彼女の深層心理を探っているものや、彼女は作家は本来鬼畜であるべきとの信念をああいう形で表明したのだ、と(なぜか自信たっぷりに(^^;))断言したものや、本当かどうか確認しようがないのだけれど、彼女の生い立ちから今回のエッセイを分析しているものもあったくらいです。

で、これらの記事(特に後者)を、ボクはそれなりに興味深く読んだのだけど、やっぱりなんだか違和感を感じてしまう。

それは、これらの記事の筆者が坂東氏の書いた文章と坂東氏個人を同一視しているからなんですね。

ボクは、文章とつきあうときの心構えの基本に「文章とそれを書いた人を同一視しない」というものがあると思っています。つまり「文は人なり」じゃなくて「文は人ならず」という立場を取っている。(このへんの事情はこのコラムで書いています)

人間は奥深いもので、一編の文章でもってすべてが見通せるほど浅はかなものではない。文章はあくまでもその人が言葉でもって組み立てた不自然な構築物であって、決してその人自身ではないと思っているんです。

だからボク自身は、今回の記事の第1回では坂東氏の文章内部の矛盾だけを指摘したし、第2回では文章から読みとれる範囲だけで坂東氏の行動の問題点を指摘するようにしました。

つまり、これがボクが文章を書くときの倫理なんですね。

さらに厳密なことをいうと、現実世界の坂東眞砂子氏と、このエッセイのなかの「私」は必ずしも一致するとは限らない。というか、原則的に一致しないのです。

ブログを書いている人の多くは、きっと心当たりがあると思うんだけど、ブログの文章を書く時って、自分にある一定の「キャラ設定」をして文章を書いてませんか?

生身の自分は刻一刻と変化していて、内部には矛盾した感情と考えが渦巻いているんだけど、ブログを書くときは「ブログを書く時用の人格」を設定して、読者を想定し、その上でなんとか人格のつじつまが合うように書いている。まあ、一種の演技なんですけどね。

話は小説やエッセイの時でも同じ(というかそれ以上)で、そこに書かれていることが、そのまま作者個人の本当の考えであるという保証は一切ないのです。つまり、原則的に小説やエッセイ用の人格は、作者の人格と同じではない。

ただ、ボクは今回のエッセイの「私」と現実の坂東氏は、かなり重なる部分が多いと思うし、エッセイ内で行われた行為を、現実の坂東氏が実際に行っている確率が高いと判断して、坂東氏の論理的な誤謬を批判し、その行動の不誠実さを非難しました。(坂東氏そのものを否定しているわけではありません。念のため^^;)

なぜかというと、今回のエッセイにはそういう「これは虚構なんだよ〜」というサインがほとんど見られなかったからです。

今回読みあさったブログ記事の中にも、このエッセイの虚構性に言及しているものが数多くありました。

たとえば、大騒ぎにしておいて、あとで全部ウソでしたと言う気なのでは、と予想するものや、じつはあれは、子どもの虐待や嬰児殺しなどで命を粗末に扱う日本社会のメタファなのだ、と主張しているものなどです。

たしかにそういう可能性もあるかもしれませんが、ボク個人としてはちょっとそれは受け入れがたい。(^^;)

ふつう、事実の報告としてではなく、虚構として文章を書くときというのは、「これは虚構だよ〜」というサインを作者が読者に送るものです。

それは、ありえない設定であったり、誇張された表現や奇妙な語り口であったり、現実の事件を想起させる似たような固有名詞であったりするわけですが、読者はこうしたサインを読み取って「ああ、これは作り話なんだな」と理解し、安心してその文章を読む訳です。

たとえば、次のような文章を読んで、動物愛護協会に抗議の電話をする人は、まずいない(笑)。(あ、でもそういうサインが分からず、虚構とのつき合い方を知らない人がいたから筒井氏は断筆宣言なんかしたのかな?)


(小説家、入江又造は意図せず無賃乗車をしてしまい、駅員に問いつめられている)

若い駅員がまた大きな声を出した時、中年の駅員が雑貨店の裏の麦畑から、茶色い紙袋をかかえて駅へ戻ってきた。日に焼け、無精髭をはやした四十五、六の駅員だった。
「いいものを拾ったぞ」と、彼は言った。
「なんだい」
「捨て猫だ。仔猫が四匹入っている」彼は紙袋の口を開いて見せた。
若い駅員がのぞきこんだ。「なるほど」
「その男は、なんだい」
「無賃乗車をしたんだ」
「ほう」中年の駅員はじろじろと私の服を眺めた。「いい服を着てやがるなあ」
 そして彼は切符売場のボックスに入り、椅子に腰を下ろした。電気焜炉に鍋をかけ、紙袋から生きた仔猫を出し、首の骨をへし折って一匹ずつ鍋の中へ入れ、四匹とも殺して鍋の中へたたきこみ、鍋の蓋をした。
「煮えたら教えてくれよ」と、若い駅員がいった。
 私は身ぶるいした。自分自身の運命をみる思いがしたからだ。

    筒井康隆「乗越駅の刑罰」(『懲戒の部屋』新潮文庫)

 


筒井氏の大傑作、「乗越駅の刑罰」の一部だけれど、ありえない設定、奇妙な会話、乾きつつ偏執的な文体、などなど「虚構のサイン」に満ちてますよね。

ところが今回のエッセイにはそうした「虚構のサイン」がほとんどない。それどころか、この騒動を受けて坂東氏自身がこんな風に発言しているのを見て、ボクはこれはほぼ虚構ではないな、と判断した訳です。

「タヒチ島に住みはじめて8年経ちます。この間、人も動物も含めた意味で『生』ということ、ひいては『死』を深く考えるようになりました。(中略)『子猫殺し』のエッセイは、その線上にあるものです。ことに、ここにおいては、動物にとって生きるとはなにか、という姿勢から、私の考えを表明しました。



とまあ、こんな感じでボクは今回の騒動を「文章とのつき合い方」という観点から観察したんだけど、殺された猫には申し訳ないけど、非常に勉強になったし、面白かった。

もし、坂東氏のエッセイに関するいろいろなブログ記事を集めて、それを分類・分析をしたなら、それはそれは良い「テクスト論」の演習になると思うよ。

どっかの大学の文学部でやらないかなぁ、これ(笑)

坂東眞砂子氏に感謝する(その2) 

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●念のため、「前回」と同じこと書いておきますね。(^^A;)

えーと、まず最初に言っておきますが、この記事のタイトルは、今回問題となった坂東氏のエッセイの内容に対して賛同し、よくぞ言ってくれた、という意味のものではありませんので、そこんとこヨロシク!(笑)

早とちりして、「この鬼畜!」みたいなコメントはしないでくださいね〜

さて、前回は、坂東眞砂子氏の「子猫殺し」というエッセイは「教材」としていろいろ使える。こんなにも使える教材を提供してくれて、どうもありがとう! という意味で「感謝する」というタイトルを使ったこと。そしてまず、「論理的思考」を鍛える教材として氏のエッセイは最適だ、ということを書きました。

今日はあと2つ、ボクが思いついた「教材」としての板東氏のエッセイの使い方を書いてみます。

エッセイの使い方その2は、いわずとしれた「道徳」の教材として使う方法です。

ただ、「道徳」の授業で使うって言うと、あのエッセイを読ませて、「こんなことは許されません。動物はかわいがりましょう」「は〜い!」みたいな授業をするんじゃないか、と思う人が多いと思うけど、そうじゃありません。

そもそもボクは、「道徳」の授業というのは、「動物をかわいがりましょう!」みたいなスローガンを教えるためのものではなくて、「ある社会的状況において、どのような行動を採ることが自他を一番幸せにするか、を考える授業」だと思っているんです。

だからボクは、じつは「子猫殺し」という行為自体については非難していない。

なぜなら、どうしても子猫を殺さざるを得ない、あるいは殺した方が良い社会的状況というのも存在すると思うからです。(たとえば生まれてくる猫が非常に危険な病原菌に冒されているとか、これ以上猫を増やすことがある閉ざされた生態系を決定的に破壊してしまうとかいう場合)

ある行動の意味は、その行動がおかれた状況によって決定されるわけで、その行動の善悪の判断も、結局、相対的なものとならざるを得ない。

だから今回、坂東氏が非難されるべきなのは、単純に子猫を殺したことではなく、あのような穴だらけの無茶苦茶な論理にしたがって子猫を殺したことだ、とボク自身は思っているんですね。

つまり、あの子猫殺しには必然性がない。あの文章を読む限り、子猫を殺す必要性はない(事実、氏は「タヒチでは野良猫はわんさかいる」と書いておきながら、「わんさかいる」野良猫が、社会にどんな悪影響を与えているかをまったく書いていない)のに、坂東氏が自分の勝手な論理で子猫を殺し、それを正当化しているように見えるから、非難されるわけです。ぜんぜん、「自他を一番幸せにする」行動を採っていない。(-_-;)

だから、あのエッセイを資料として生徒に渡して、「資料から読み取れる範囲で、坂東氏自身と親猫・子猫、そして周りの社会のために、氏が採るべき最善の方法は何か?」「もし、あなたが資料文にある状況下の坂東氏の立場ならば、どう行動するか?」と問えば、これはなかなか良い「道徳」の授業になると思う。

資料文に書かれた状況下で、子猫を殺す以外にどんな方法が考えられるか?

不妊手術も含めて、採りうる行動のあらゆる可能性を考え、その中から「自他を一番幸せにする」行動を模索していく。

そしてその過程において、生徒は実生活におけるより適切な意志決定の方法を学んでいくんだと思うのです。

さらには、氏のエッセイに加えて他の事例も与えることで、もっと深く「動物を殺す」という行為の意味を考えることもできます。

たとえば、こんな話はどうでしょう。

 Aさんは、養鶏業を営んでいます。ブロイラー(食肉用)の鶏で、11棟の鶏舎に2万羽のヒヨコを仕入れてきて、それを約3ヶ月育てて市場に出荷しているのです。
 仕入れたヒヨコの中には、ある一定の割合で生まれつき足の弱い「脚弱」と呼ばれるヒヨコが交じっています。脚弱のヒヨコは遅かれ早かれ、仲間の鶏につつかれて死んでしまいます。そんないつか死んでしまう脚弱のヒヨコにエサを与えるのは、養鶏業を営むという立場から言えば、ムダなことです。エサはただではありません。他の健康な鳥を太らせ、コストを下げるためにも脚弱のヒヨコは取り除く必要があります。だからAさんは、脚弱のヒヨコを見つけると、鶏舎のコンクリートの床にたたきつけて殺してしまいます。



さて、この話を生徒に与えておいて質問します。

「坂東氏の『子猫殺し』とAさんの『ヒヨコ殺し』は同じでしょうか、違うでしょうか?」

「もし違うとすれば、何が違うのでしょうか?」

「もし、あなたがAさんの立場だったらどうしますか?」

この質問って大人が考えてもいろいろな答えが出てくると思いませんか?

で、このAさんの話なんですけど、じつはAさんというのはボクの父親なんです。(^^;)

ボクの実家は養鶏業を営んでいて、ここに書いた話は、ボクが小さいころから、それこそ「日常茶飯事」に行われていたことなんですね。

こんな風景を間近に見て育ったものだから、ボクは極端な動物愛護主義や、動物の生命尊重の立場からのベジタリアンには、どうも共感できない。

ペットの殺処分に涙を浮かべて反対する人を見ると、反射的に「自分だってうまそうにフライドチキンや牛丼喰っとるだろうが。鳥や牛の命はいいんかい!」と思い、自慢そうに自分がベジタリアンであることを宣言する人を見ると、「おらおら、あんたの目の前のサラダボールで、引きちぎられた野菜たちが悲鳴上げとるぞ〜」と、なぜか亀田兄弟風に毒づいてしまう(^^;)

「自分が生きるためには、どうしたって他の命を殺さなければならない」という「業」に似た感覚が、骨の髄までしみ込んでいるんですね。なにせ年間8万羽の鶏を殺して、うちら家族は生活してきた訳ですから。

でもだからといって、さっきの話も、もし幼いボクが、脚弱のヒヨコに「ピーちゃん」と名前をつけてかわいがっていたのに、そのピーちゃんを殺す、となると、話も変わってくるし、今回の「子猫殺し」の件は、本当に色々な面から命の問題が考えられる、良い「道徳」の教材になるんですねぇ。

たとえば、以前、NHKでやっていた「自分たちで豚を飼ってそれを食べる授業」のドキュメンタリーや、たしか「マドンナB」という名前で教科書に採用されていた社会科見学で屠殺場に行く話や、あとこれは坂東氏のエッセイと同じ反面教師としてだけど、「大造じいさんとガン」なんかとも組み合わせて、いろいろな授業が考えられる。

こう考えると、やっぱり「坂東さん、ありがとう」と言いたくなっちゃうんですよね〜(^^;)

ありゃ、今日中に2つとも説明しようと思ったんだけど、「道徳」への活用法だけでだいぶ長くなっちゃいましたね。もう一つは、次回に回しましょうか。

あと、一回だけこの件について書きます。

それでは。

坂東眞砂子氏に感謝する(その1) 

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●えーと、まず最初に言っておきますが、この記事のタイトルは、今回問題となった坂東氏のエッセイの内容に対して賛同し、よくぞ言ってくれた、という意味のものではありませんので、そこんとこヨロシク!(笑)

早とちりして、「この鬼畜!」みたいなコメントはしないでくださいね〜(^^;)

では、なぜ「感謝する」なのか?

(それをこれから書いていくわけだけど、まずは坂東氏がどんなエッセイを書いたのかを知らないと、これから言うことがチンプンカンプンになると思うので、未読の方は、『ここ』『ここ』で、今回問題となったエッセイをお読みください。また、将来のことも考えて、この記事の「続きを読む」以降にもエッセイ全文を掲載しておきます)

じつは、このエッセイ、「教材」としてたくさんの使い道があるんです。

もちろん「反面教師」としての使い道なんだけど、ボクのように生徒に何かを教える立場の者にしてみれば、それこそいろんな場面で使える非常に便利な教材で、「こんなに使える教材をどうもありがとう」という意味で、「感謝する」というわけです。

まず、このエッセイ。「論理的思考」を鍛えるのに、ムチャクチャ役立ちます。

多くのの人にとって、このエッセイは、不愉快きわまりないものでしょう。

こういう文章は、読者に激烈な反応を引き起こします。

ただ、ややもするとその反応は、非常に感情的なもので、多くの人は、このエッセイに対する強い嫌悪感を、短い言葉でたたきつけて終わりにしてしまう。

たとえば、

「何だこいつ、ムカツク!」「こんなヤツ人間じゃない!」

といった感じで、あとは罵詈雑言の嵐……

この事件が起こった後、ボクもいろいろ他のブログを見たりしたけれど、記事の内容は圧倒的にこのパターンが多かった。

たしかに心情的には分かるんだけど、実際問題として坂東氏や日経新聞に今回の記事に対して何らかの対応を求めたりするのであれば、感情的な反応だけでは物事は解決しません。

ケンカは冷静な方が勝つんです。(^^;)

世の動物愛護家には、鬼畜のように罵倒されるだろう。
動物愛護管理法に反するといわれるかもしれない。そんなこと承知で打ち明けるが、私は子猫を殺している。


こう書いてある以上、彼女は罵倒されることなど予想しています。

だからこのエッセイに対して「鬼畜!」「人でなし!」と罵倒するのは、ある意味、彼女の思うツボ。(-_-;)

むしろ彼女の弱点は、言葉を重ねて(=論理的に)自分の行為を正当化しようとしているところなんです。たとえば、

獣の雌にとっての「生」とは、盛りのついた時にセックスして、子供を産むことではないか。その本質的な生を、人間の都合で奪いとっていいものだろうか


→では、子猫の命を「人間の都合で」奪うことは許されるのか?


この差(石井注:不妊手術と子猫殺し)の間には、親猫にとっての「生」の経験の有無、子猫にとっては、殺されるという悲劇が横たわっている。どっちがいいとか、悪いとか、いえるものではない。


→ならば、なぜ「子猫殺し」の方を選択したのか? その根拠は?


獣にとっての「生」とは、人間の干渉なく、自然の中で生きることだ。生き延びるために喰うとか、被害を及ぼされるから殺すといった生死に関わることでない限り、人が他の生き物の「生」にちょっかいを出すのは間違っている


→ならばなぜ、猫を飼う?
→坂東氏にとって子猫殺しは「生き延びるために喰うとか、被害を及ぼされるから殺す」といった類の問題なのか?



こんな風に、彼女の文章を読んで、「何だそりゃ? おかしいぞ!」という怒りの感情が出てきたら、

「一体、どこがおかしいんだ?」

「この気持ち悪さの正体は何だ?」

と自問自答して、きちんと言語化する。

そうして坂東氏の論の誤りを冷静に分析し、論理的矛盾を追及して、反論できないように黙らせる。

こうするより他に、(主観的にも客観的にも)本質的な解決はないんですよね。

でもって、この「言語化」の過程が、「論理的思考」を鍛えるのに非常に役立つ。

そもそも論理というのは言葉の戦争の中で鍛えられてきたものです。

坂東氏がエッセイでああいう風な文章を発表し、それに対してそれこそ「論理的に」反駁できなければ、われわれは坂東氏の主張を受け入れざるを得なくなる。それって、

いやですよねぇ。(笑)

だから言葉で売られたケンカはきちんと買って、言葉でやり返す必要があるんです。

それも「鬼畜!」「人でなし!」といった言葉ではなく、あくまでも相手と同じ土俵に立った言葉で、です。

とりあえず長くなってきたので、今日はこの辺にしておきます。

あと2つ、「教材」として板東氏のエッセイを使う方法を思いついていますので、次回はそのことについて書いてみようと思います。

それでは,また明後日……

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【月刊ブレスコラム】未来逆算派VS現在延長派 〜2種類の人間対決part2〜 (2006/06) 

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●仕事が積んできたので、ジョーカーを切ります(笑)

6月の月刊ブレスのコラムをアップして今日の更新は終わり〜(*^^*)

画像は大阪万博のシンボル「太陽の塔」の“裏側”です。

なんで「太陽の塔」かというと、日本人が、みんなそろって明るい未来を思い描けた、最後の時代のシンボルだと思うから。

裏側にあるこの太陽は「過去の太陽」と言うんだそうです。

ちなみに太陽の塔には四つの太陽があるらしい。←くわしくはここをクリック)

過去を背負って未来を見据える。

今回のコラムは、その未来の見据え方に関するお話です。

-------------------------ここから

 さて、先月号から始まった、「2種類の人間対決」。今回はその第二弾です。題して『未来逆算派VS現在延長派』。未来を考えるための2種類の方法についてお話しします。

●未来を予測する2つの方法
 いきなり質問です(笑)。
「10年後のあなたは、どこでどんなことをしていますか?」
 この質問に比較的すぐ答えられるようなら、あなたはどちらかというと「未来逆算派」、なかなか答えられないようであれば「現在延長派」の傾向があるのかもしれません。

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夏の夜の怪談(“私”はどこにいるのか?) 

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●今日も暑かったですね〜 

前橋は35度。でもなんと言ってもつらいのはこの湿気!

体が水蒸気のセーターを着ているようで、いくらスリムなボク(ウソ)でもイヤになってしまいます。

こんな夏の日は、背筋も凍る怪談が一番!(?)ということで、この夏ボクが一番コワイと思ったお話を一つ。

この夏、夜中に何となくテレビを観ていたら、ベストセラー『バカの壁』で有名な養老孟司氏と、これまたベストセラー『生き方上手』の日野原重明氏が対談していたんです。

まあ、深夜だし、夏講で疲れていたのもあったので、真剣に聴くでもなしに、「二人合わせて印税いくらだ〜?」なんて考えながら(^^;)ボーっと寝転がって眺めていたんですが、ふと耳に入った話を脳が理解したとたん、ボクはガバッと跳ね起きた。

それは養老さんの話で、次のような話だったんです。(うろ覚えなのでディティルが不正確なのは許して下さいね)

「人間は、自分の行動を自分でコントロールしていると思っているけど、それはとんでもない勘違いだ。最近の研究で、こんなことが分かってきた。たとえばここにあるコップをとろうとして手を伸ばす。で、実際に手を伸ばす動作が始まる瞬間と、『手を伸ばせ』という指令が脳から出るタイミングをくらべると、じつは手を伸ばす動作の方が、ほんの少しだけ早く始まっているんです。つまり、手の方が先に動いてから脳が手を伸ばせという指令を出しているんです」

いや〜、これを聞いたときは、ホント、背筋がゾゾーっとしましたね。

で、それと同時にちょっと笑ってしまった。

だって、手の方が先に動いてから脳が手を伸ばせという指令を出しているんですよ。

じゃあ、一体、「何」が手を動かすことを決めたんだ?

それに脳も脳だよ。

手の方が先に動いてから「あ、そうそう、オレもいま手を伸ばせって命令を出そうと思ってたんだよね〜」みたいな感じで、あとから命令を出すなんて、無能でまぬけな上司みたいだ。(^^;)

いや、大脳を通らずに行動が起こる「反射」や、深層心理による「言い間違い」なんかはすでに知ってはいたけれど、自分の意志でコントロールできる(と思っていた)随意筋による行動まで、自分の意志による行動ではなかったってことまでは知らなかったですねぇ。

つまり、これって今まで自分の意志で決めたと思っていた、自分の人生におけるさまざまな選択も、結局、「何か」が決めたことを、意識が後追いする形で自分が決めたように思い込んできただけ、ということでしょ?

一昨日の投稿じゃあないけど、すべての人間は「何か」の操り人形なのか?

『マルコビッチの穴』は実話だったのか(笑)?

記事のトップにある気持ち悪い(?)人形の画像は、「ホムンクルス(脳の中のこびと)」像。

ペンフィールドというカナダの脳外科医が、てんかん患者の手術を行った際に、脳の各部位を刺激して、脳のどの領域が体のどの部分を司っているかを調べ、その結果を脳マップ(下図参照)に落として、面積比にあわせて立体化したものです。

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これを見ると、人間の脳がいかにゆがんだ形で世界を認識しているかが分かります。

その上、かならずしも自分の行動をコントロールしているのが脳ではない、ということになると、一体、脳と体の関係はどうなっているのか? われわれの「意識」というやつの正体は何か? という疑問が湧いてきてしまう。

一体、自分が存在すると信じている“私”はどこにいるのか?

幽霊や霊魂など、目に見えないものを考え出すのも脳、それらを恐れるのも脳。

脳が問いを立て、脳がそれに答えようとする。

無限の連鎖。クラインの壺

一番の神秘と恐怖は、自分の内側にあるのでした。

大(?)古本市(あるいは人形使いの快楽) 

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●お盆休みも今日で終わり。

最終日はボサボサになった髪を切りに、家族で美容院に行き、ついでに市の中心街にあるデパートに行きました。

そこでやっていたのが画像の「大古本市」

夏のこの時期に恒例で、高校時代はよく行っていたものだから、思わずベビーカーを押してまで行ってみたんだけど、感想はタイトル通り「大(?)古本市」という感じ。

昔ボクが通っていた頃の古本市の約半分(それ以下?)の広さしかなく、出されている本も、気の抜けた本ばかりで、いまいちピンと来るものはナシ(↓)

なんかねぇ、「今日はどんな面白い本に出会えるんだろう」っていう古本市独特の、あのワクワク感がぜんぜん感じられなかったんですねぇ(T_T)

ボク自身が変わったのか、それとも古書店側の熱の入れ方が変わったのか分からないけど、なんか無性に寂しい思いがしました。

でも、そんななかで今日買ったのは次の本。

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故伊丹十三の『「お葬式」日記』

これは氏のデビュー作である映画『お葬式』のメイキング本なんだけど、むかし、同じく氏の『「マルサの女」日記』がめっぽう面白かったので、欲しい欲しいと思いながら絶版で買えなかったもの。

書棚にみつけて思わず買ってしまいました。

伊丹氏の映画はけっこう好きで(特に3作目の『マルサの女』までは、本当にスゴイと思う)、そのほとんどを見ているのだけれど、じつはこのメイキング本が本編と同じか、へたするとそれ以上に面白いんですね。

で、これは別に、伊丹氏の映画に限ったわけではなくて、どうやらボクは、「メイキング」というのが本当に好きらしい(^^;)

へぇ、あのシーンはこんな風に撮ってるのかぁ、とか、あ、この場面にはこんな意味が込められていたのね、とか、とにかく「種明かし」や「舞台裏」が本当に好き。

当然、DVDに収録されている特典映像は必ず見るし、作家の創作ノートとか、マンガやアニメの設定集も、手に入れば必ず熟読してしまう。

さらに、信じられない人もいるかも知れないけれど、じつはボクはミステリーの犯人をあらかじめ教えられてもぜんぜん怒らないタイプ。ネタバレ、ぜんぜんOKなんです。(^^;)

なぜなら、それならそれで犯人が明らかになるまでのストーリー展開の巧さを味わえばいいと思っているから。

お、そこでそういう風に伏線張るのね、とか、ちょっと、ここんとこ間延びしちゃってるかなぁ、とかいいながら小説を読んだり、映画を見たりする。

けっきょく、ボクは作り手側の視点で、あらゆるものを見るのが好きなんですね。

「人形」と「人形使い」のメタファでいえば、かっこいい人形(=俳優、登場人物)が素晴らしい演技をすればするほど、ボクはその後ろに存在する人形使い(=監督、作者)が気になってしょうがない。

自分を神の位置に据えて、たくさんの人形を使って魅力的なお話を紡ぎ出す人形使い。

そんな人形使いにあこがれるボクは、自分では意識していないけれど、けっこう支配欲が強いのかも知れません。

最後に、面白くて、結局一気読みしてしまった『「お葬式」日記』より、なぜか気になったフレーズを一つ

 (映画の)編集とは映画の時間を作ることであり、時間とはバランスである。切ることによってシーン相互のバランスが変わり、したがって時間も変わってくる。あるシーンの周りを刈りこんで軽くすると、同じシーンが元より重く感じられ、前より時間の経つのが遅くなるのである。
 全体のバランスをとりつつ快適なテンポを作り出すこと。見せるべきものはじっくりと見せながら、全体を現在進行形で押し切ること。材料はすでに撮影済みで手もとにそろってしまっている。その材料という現実から出発して、架空の「最も映画らしい時間」というものを創り出すのだ。しかし−−最も映画らしい時間とは一体何か?
    (伊丹十三『「お葬式」日記』文藝春秋社)




幼年期の終わり(あるいは世界平和について) 

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●お盆休み中、久しぶりにフィクションを読みました。

アーサー・C・クラークの『幼年期の終わり』(福島正実訳 ハヤカワ文庫)です。(ちなみに画像は創元社版で沼沢洽治が訳しているバージョンです)

アーサー・C・クラークといえば、『2001年宇宙の旅』が一番有名ですが、ファンの間ではこっちの『幼年期の終わり』を一番だと言う人も多いらしい。

高校時代に最初のところだけ読んで、なぜか読了していなかったのを思い出して、わざわざもう一度買い直して読んでみました(^^;)

なんでそんなことをしたのかというと、先日、夏期講習期間中に生徒がやっていた国語の問題集に、面白い文章が載っていたからです。


およそすべての集団は、これを侵略し征服しようとするより巨大でより強力な集団の外圧にさらされると、たとえ虚構であっても構成員の同質性を基盤とする『想像の共同体』を編成し、その凝集力を増大させずにはいない。(中略)そしてこのとき、当該集団の内部に偏在しているはずのさまざまな軋轢(きしみ)や対立や確執は、一時的に捨象され、あたかも存在しないかのように扱われることになる。つまり外部との拮抗においてある集団を圧縮する力学は、その集団自体が内包する多様な差異を隠蔽してしまう。 (石井洋二郎「マイ・カルチャーショック」より)



難しそうに書いてあるけど、話は簡単。

たとえば、Aという国の内部に、対立する2つの民族がいて、それが毎日いがみあっていたとする。ところがこの混乱に乗じてA国を乗っ取ろうとする強大なB国が攻め込んでくると、とたんにこの二つの民族は和解して、ともにB国と闘うために共同戦線を張るようになる。というわけ。

これは民族だけではなく、クラス内の派閥や、会社の人事、893の抗争まで、み〜んな同じ。

人間のDNAレベルに組みこまれた行動原理なんだと思う。

(余談だけど、この行動原理を、うま〜く利用して国を一つにまとめ上げているのが、United States of Americaなんだよねぇ(−_−;))

で、ここで『幼年期の終り』の登場。

この小説は、人類が宇宙に飛び出そうとしたその日に、世界中の大都市上空に無数の巨大UFOが飛来するところからはじまる。

飛来したUFOは攻撃を仕掛けるわけでもなく、ただ、そこに「いる」

最初は抵抗を試みる者もいたが、圧倒的な科学力の差を見せつけられ、地球人は徐々にこの状況を受け入れはじめる。彼らを〈上帝(オーバーロード)〉と呼び、彼らの指示にしたがうようになるのだ。

しかし、〈上帝〉は、人種差別の撤廃、動物に対する虐待など、いくつかの問題に対しては直接関与してきたが、あとはまるっきり人類まかせ。

それでも人類は戦争をやめ、国家権力を解体し、ついに世界連邦を作りあげる……

と、ここまでが小説の導入部分で、この後、なぜ〈上帝〉は地球に対してこのような態度をとったのか、そして、このような「黄金時代」を迎えた人類はどうなっていくのか、が圧倒的な迫力で語られていくのですが、もう、言いたいことはお分かりですね。

人類が世界平和を実現させるためには、やっぱり宇宙から〈上帝〉の乗ったUFOがやって来るしかないんじゃないか。

外部からの圧倒的な力が現れない限り、人類は一つにはなれないんじゃないか。

じつは、先日「言有宗」のコラムを書いていて、最近のイスラエルのレバノンへの攻撃に触れる部分があったので、ちょっと中東の歴史について調べたんです。

改めて調べてみると、「う〜〜ん、こりゃ和平はムリだな〜」ってくらい、あまりにも血が流れすぎている。

人間はやはり戦争が大好きで、だれも平和なんか望んでいない。戦いの中で相手を打ち負かしたときにだけ、ほんのちょっとだけ幸せを感じる血に飢えた野獣じゃないか。

そんな絶望的な気分にさせられてしまいます。

かといって、その獣性がなければ、今の文明社会が成立しなかったこともたしかで(事実、小説の中で黄金期を迎えた人類はいわゆる「進歩」をやめてしまう)、人類はこの先も、この身のうちに巣喰う獣性を飼い慣らしつつ、生きていかざるを得ないのかもしれません。

だれも信じちゃいないレバノンの停戦が発効し、小泉首相が靖国神社に参拝して大騒ぎしている、61回目の終戦記念日にそう思いました。

ニューヨーク・ニューヨーク 

LibertyIsland.jpg


●遅ればせながらGoogle Earthにはまってます。(^^;)

でもって、上の画像は「自由の女神」があるLiberty Islandの衛星写真。

島の右側の星形の部分の中央に、彼女は立っています。(ぜひ、拡大してみて下さい)

でなんで、自由の女神かというと、今日、古い友人から次のようなニュースを教えてもらったからなんです。

「自由の女神像」の王冠部分、今後も立ち入り禁止

 ニューヨークの「自由の女神像」の王冠部分に設けられている展望台が、2001年9月の米同時テロで閉鎖されたまま、今後も再開されないことが9日、明らかになった。

 国立公園局では、女神像の内部に設けられた展望台に通じる階段が狭いため、テロや火災の際に緊急避難しにくいことを理由にあげているが、地元議員らからは「テロの恐怖に当局が負けた」などと反発する声が出ている。

 ニューヨークのリバティ島にある自由の女神像は、同時テロ直後に観光客の訪問が禁止されたが、04年に2000万ドルをかけてテロ防止措置が取られ、見学を再開。しかし、王冠部分の展望台は立ち入り禁止のままで、見学者は像の足元部分までしか入ることが出来ない。



ボクが93年にアメリカで日本語を教えていたころ、まとまった休みになると決まって行ってたのが、ニューヨーク。

で、初めて自由の女神に行ったのは、渡米して1ヶ月後のことでした。

ホストファミリーに連れられて、バッテリーパークから、おのぼりさん率100%(!)のフェリーに乗って、いざ、Liberty Islandへ。

フェリーの上からふり返れば、マンハッタンの摩天楼。

青空の下、ひときわ輝いていたのが、今はなきWTCのツインタワーでした。

初めて自由の女神のクラウン(王冠)の展望台に登ったのは、今日のニュースを教えてくれた友達と。

内部は高崎の観音さま(ローカルな話題でスイマセン^^;)の中と同じくらい(?)ちゃちくって、二人して衝撃を受けたものです(笑)。

たしかにあのせまい螺旋階段と、逃げ場のない展望台の内部を考えると、今回の決定は仕方がないかな、とも思えるけど、あらゆる人種が押し合いへし合いしながら登り、世界各国のはしゃいだ言葉がこだましたあの空間が、もう二度と見られないのかと思うと、やはり、ちと寂しい。

ニューヨークという街は、いかにもアメリカ的と言われるけれども、ボクにとってのアメリカ的というのは、ある意味日本よりも保守的で閉鎖的なコミュニティが点在する田舎って感じなので、あらゆる人種、あらゆる言語、あらゆる音楽、あらゆる芸術、あらゆる料理が渾然一体となったあの街の雰囲気は、やはり独特のものだったんだと思う。

へたくそな英語をしゃべってもぜんぜん恥ずかしくない街、ニューヨーク。

となりの人がどんなに変なことをしていても、興味がなければ放っておいてくれる街、ニューヨーク。

ある意味、人生のリセットで訪れていたアメリカで、ニューヨークはボクが一番過ごしやすかった街でした。

でも、もうあれから13年。

まさかWTCがなくなってしまうなんて、あの時だれも予想できなかったように、いまこのような人生を歩んでいることを、あのころのボクは、これっぽっちも予想できませんでした。

Google Earthで神の視点で地球を眺めると、自分の人生のあまりの小ささに愕然とします。

でもこうして夏期講習の前半を終えて、明日から休みに入るという夜にお酒を飲みながらGoogle Earthで行ったことのある場所を覗き、昔のことを思い出すのは、そんなに悪い気分ではないんですねぇ。(笑)

まあ、今日はなんのオチもつけずにこの辺で。おやすみなさい……


やりたいことは探すもんじゃない 

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●いや〜、今日は朝からびっくりしました。

ちっちゃいお子さんがいる家庭では、みんなそうだと思うんですけど、今朝もうちはいつものように、わが家のメインチャンネル、NHK教育テレビの「おかあさんといっしょ」をみていたのです。

で、今日は夏休みの特番(?)で、ファミリーコンサートをやっていたのですが、曲間のMCで、こんな会話が……


(前の曲が終わって)

おねえさん:「さあ、みんな〜 やりたいことやっちゃおうね〜!」

会場のみんな:「はあぁ〜い!!」

おねえさん:「ねぇねぇ、おにいさんのやりたい事ってなあに?」

おにいさん:「うん、おにいさんはねぇ………(とかなり引っ張って)
               やりたいことわかんないの〜(とずっこける)」
                          (思いっきりすべる^^;)

おねえさん:「じゃあ、みんなもおにいさんと一緒に、
                       やりたいこと探しに行こう!」

(といって次の曲「ずんずんあるいて」へ……)




いや、なにがビックリかって、こんなちっちゃい子たち対象に「やりたいことを見つけよう!」っていうか? ふつう(笑)。

ボクの感覚からすると、子どもたちっていうのは「やりたいことの固まり」で、次から次へと、衝動のままにそれがやりたいことなのかどうか考えもせずにやりつづける存在、だと思うんですよね。

だから子どもたちに、「やりたいことを探そう!」って呼びかけるのは、すごく違和感がある。言う相手が違うだろ、みたいな。

そもそもボクは、「やりたいこと」って探して見つかるもんじゃない、と思っているんです。

その人が本当にやりたいことっていうのは、さっきも書いたけど、目の前のことを衝動的に、それが本当にやりたいことかなんて、考えもせずにやっているうちに、「ぶつかる」もんだと思う。

それもぶつかったときは分からなくて、あとになって、あ、あれがやりたいことだったんだ、なんて気がついて後戻りしたり、下手すると死ぬ間際に分かったり……(^^;)

最近、気になった映画のキャッチコピーに、「大切なのは、答えのない人生を生き抜く力」というのがあった。

「はて、これは自分が本当にやりたいことか?」なんて、目の前に立ってあれこれ考えているうちは、やりたいことは見つからない。

つねに目の前にあるのは「やること」だけ。

そこに自分が熱くなれる「やること」があるなら、あれこれ考えずに「やる」

熱くなれなくても、とりあえず、「やる」(^^;)

そこからしか、やりたいことへの道は開けないんだと思います。

だから、「おかあさんといっしょ」のおにいさんも、せっかく「まねっこピーナッツ」が“ずんずんあるいて”といってるんだから、まねっこして歩き出そうね〜。

(最後の段落、意味わからない人ゴメンなさい。興味のある人は記事のトップのDVDを買うか、毎朝教育テレビをチェックしてください〜 そんなヒマないか? ^^;)

愛国心について考えてみる 

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●ちょっと、愛国心について考えてみます。

え、唐突?

いや、明日は原爆記念日だし、もうすぐ終戦(敗戦?)記念日だし、靖国問題もキナ臭いし、相変わらず日の丸・君が代問題も教育現場を混乱させてるし…、まあ、つい思いついちゃったもんで(笑)

でもって、こうやってちょっと考えてみるだけで、この問題ってなんだか本当に鬱陶(うっとう)しい感じがするんですよね。

なぜこんなに鬱陶しいのかというと、この愛国心に関する議論というやつが、じつに不毛な感じをボクに与えるからだと思う。

いま手元に本がなく、正確な引用ができないのが申し訳ないのだけれど、たしか、清水義範の『虚構市立不条理中学校』という小説の中に、こんな記述があった(と思う)。

清水氏は、この本の中で日の丸・君が代問題に触れている(と思う)んだけど、結局、日の丸・君が代問題には、次のような問題にむりやり答えさせようとする不自然さがあるというんですね。

問. 以下の文の内容が正しければ○、誤っていれば×をカッコの中に書きなさい。

(1) 日本は素晴らしい国である……(  )



どうです? 爆笑もんでしょ?

相変わらず清水義範の毒はすごい。 でもって、正鵠を射ている。

つまり、日の丸を揚げさせ、君が代を歌わせようとする派は、なんとしてでもカッコの中に○を入れさせようとしているし、逆に日の丸は認めないし、君が代は歌わせないという派は、何が何でもカッコの中に×を入れさせたがっている、というわけ。

これはもう立派な宗教戦争で、両派ともあいまいなグレーゾーンなんかこれっぽっちも認めないもんだから、議論は不毛になるはずです。

これは「愛国心」の問題にもそのまま当てはまって、いわゆる「右」といわれる人も、いわゆる「左」といわれる人も、結局、この○×式の二者選択のワナに落ち込んでしまっている。

どちらの派が意見を表明しようとも、すでに答えは○か×かで決まっている訳だから、議論はかみ合うはずもなく、お互いがお互いを罵倒して終わる…… これじゃあ鬱陶しい訳です(^^;)

で、なんでこんなことになってしまっているのかというと、結局、言葉の定義をきちんとしていないからなんでしょうね。

「国を愛する」という時の「国」とは何か?

考えれば「国」というのは、いろいろな要素で成り立っています。

領土、領空、領海、自然風物までを含めた風土、そこに住む日本人と呼ばれる人々、昔から伝わる伝統文化、そこで話される日本語という言語、日本国憲法に基づく法体系、社会的インフラに基づく経済活動、そしてそれらを管轄する日本国政府……

どの要素を含み、どの要素を含まないのかを明らかにしないまま「国」という言葉を使って議論するのは、ナンセンスというものです。

「国」という言葉ですら、このような有り様ですから、いわんや「愛する」をや。(「抑揚」ね「抑揚」^^;)

ものすごくシンプルな「好き」というレベルから、相手に良くなってほしいからこそ敢えて苦言を呈する、という「屈折した愛」まで、それこそ愛の形は十人十色。

「国」とは何か? 「愛する」とはどのような行為なのか?

それを定義しないまま、それぞれがそれぞれの思い込みで意見を述べても、噛み合いっこありません。

むしろ、ボクが提案したいのは、「愛国心」の問題を考えるときは「国」という言葉も「愛する」という言葉も使わない、ということ。

「国を愛する心を持っているか」と通知票の評価欄に書いてあるから問題になるわけで、これを「現代日本の諸問題を正確に把握し、それに対する現実的、かつ建設的な改善案を提案できるか」と書かれていれば、だいぶ問題はクリアになるはず。

まあ、「現代日本」が何を指すか、とか「諸問題を正確に把握」を、どう評価するのか、などという問題はあるけど、少なくとも○×式問題に、むりやり答えさせるより害は少ないと思うよ。

はらふくるるわざ 

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●画像はボクと「後ろ姿がそっくり」といわれる、もうすぐ1歳3ヵ月になるうちの息子君です。

で、今日の息子君。保育園でなにか気に入らないことがあったらしく、帰って来るなり、何だか不機嫌。

まあ、不機嫌なのは、ボクらがぎゅうっと抱きしめてあげて、しばらく相手をしてあげればなおるのだけど、困ったのは、連絡帳に「お友達に噛みつこうとします」と書かれてしまったこと(-_-;)

最近、息子君には、たくさん言いたいことがあるらしく、「あうあうあう」と一生懸命話しかけたり、いきなり「ぎゃーーー!」と叫んだり、内側にある気持ちを外に向けて発信しようと、いろいろやってたんですね。

その一つに「相手に噛みつく」というのがあって、主に不満の意を相手に伝えようとするときに、むしゃぶりついてきて、いきなり噛みつく(>_<)

でもって、これが半端なく痛くって、ボクら夫婦は、だれか他の人にこれをやられたら困るな、と心配していたわけです。

悪い予感は的中して、今回の連絡帳となったわけですが、困ったなあと思いつつ、ボクは息子君がどんどん人間らしくなっていくのを、しみじみと確認していました。

「おぼしき事言わぬは腹ふくるるわざなれば(思ったことを言わないのは腹がいっぱいになるような気がするので)」と書いたのは、『徒然草』の吉田兼好ですが、人間には自分の内部にある気持ちを、外に出したい、という根源的な欲求があるようです。

その欲求は、普通の大人ならば、言葉にすることで大部分を解消するのだけれど、子どもや、言葉で自分を表現するのが苦手な人だと、そうはいかない。

そうすると、どうしても言葉以外の表現で自分を表現することになるわけで、うまく別な表現形式(楽器演奏とか絵を描くとか)が見つかればいいけど、それさえも上手く行かないときは、体の症状に表れたり、異常行動として外に出たりしてしまう。

突如キレる、なんていうのもその一種で、息子君の噛みつきもそれに近いのかも知れません。

だから、言葉をしゃべるようになれば、そのうち収まるんじゃないかなぁ、とのんきな父親は思っているのですが、とりあえずお友達を噛むことに対してだけは、早急に何らかの手を打たなければならない。

では、「噛みつく」というコミュニケーションの手段が、社会的に許されるものではない、ということを、息子君にどう教えるか?

言葉で良く言い聞かせる、というアタマで理解させる方法から、噛んだら噛み返す、というカラダで分からせる方法まで、どの方法をとるのが息子君にとって一番良いのか?

きちんと夫婦で相談して、原則を決めつつ、状況に合わせて臨機応変に対応していこうと思います。

なかなか難しいんだけどね……(^^;)